婚活に活かすマインドフルネス
Ⅰ.このブログがお役に立ちそうな方
そもそもこの世の中には、自分の気持ちを押し殺したりしなければならないことや、他者に素直に接することが出来なくなるような出来事も多々あります。
ですから、もし仮にあなたが、人当たりが良くない人、であったとしてもそれはあなたの責任ではありません。
世の中に理不尽なことはたくさんあります。
とはいえ、あなたに不都合や不利益があるのであれば、それを改善できるのはあなたしかいません。
理不尽な出来事を乗り越えて、人当たりを良くして、幸せをつかんでください。
ですから、もし仮にあなたが、人当たりが良くない人、であったとしてもそれはあなたの責任ではありません。
世の中に理不尽なことはたくさんあります。
とはいえ、あなたに不都合や不利益があるのであれば、それを改善できるのはあなたしかいません。
理不尽な出来事を乗り越えて、人当たりを良くして、幸せをつかんでください。
1.知らない人と会うのが苦手な方
知らない人と会うのが苦手な方がいる一方で、面識のない人と会うのが大好き、という方もいらっしゃいます。
面識のない人と会うのが大好きな方は、一般的に「人当たりがよい」人と言えるでしょう。本人もそのことを理解していて相手に対面しているように思います。
面識のない人に会うのが大好きな方は、人に会うことで自分に「メリット」がもたらされるから、人に会うことが大好きなのでしょう。
たとえばビジネスチャンスが広がる、新たな視野が広がる、人と会うと元気がもらえるなどということが考えられます。
これらはすべて自分にもたらされる「メリット」です。
ちなみに、15年ほど取り組んでいるヴィパッサナー瞑想では、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を「欲」ととらえます。
普通皆さんがとらえる「欲」よりはかなり広いとらえ方です。『自分の心に、気持ちよい変化(快)が起こることを求めて行動する』と言い換えると理解しやすいと思います。
人に会うことで実利的なメリットもあり、自分が相手に良い印象を与えるよう振る舞い、相手に好意をもってもらえれば、人に会うことは「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」をもたらしてくれます。
人と会うのが大好きな人は、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を求めるがゆえに、積極的に人に会う、と考えられます。
一方、知らない人と会うのが苦手な方は、これらの「メリット=心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」は感じず、むしろ人と会うことに「デメリット」を感じているのではないでしょうか。
「デメリット」とは、たとえば、自分に自信がない、愛想を振りまくのが苦手、会話が弾まない・・・お相手から好意をもたれないのではないかという心配、ということになります。
自分にとって心地よい具体的な「メリット=心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」が得られなくて、デメリットばかり感じられるのですから、知らない人に会うことには抵抗が生まれます。
「人当たりを良くする」ことで、まずは自分の側からお相手に与える印象を良くして、それによって、あなたが「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」をお相手から得られるようになれば、人に会うのが苦になりません。
仕事上では、自分の「役割行動」つまり、上司や同僚、顧客から自分に期待されている役割を取る行動をすればよいので、上記のデメリットはあまり意識されません。
面識のない人と会うのが大好きな方は、一般的に「人当たりがよい」人と言えるでしょう。本人もそのことを理解していて相手に対面しているように思います。
面識のない人に会うのが大好きな方は、人に会うことで自分に「メリット」がもたらされるから、人に会うことが大好きなのでしょう。
たとえばビジネスチャンスが広がる、新たな視野が広がる、人と会うと元気がもらえるなどということが考えられます。
これらはすべて自分にもたらされる「メリット」です。
ちなみに、15年ほど取り組んでいるヴィパッサナー瞑想では、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を「欲」ととらえます。
普通皆さんがとらえる「欲」よりはかなり広いとらえ方です。『自分の心に、気持ちよい変化(快)が起こることを求めて行動する』と言い換えると理解しやすいと思います。
人に会うことで実利的なメリットもあり、自分が相手に良い印象を与えるよう振る舞い、相手に好意をもってもらえれば、人に会うことは「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」をもたらしてくれます。
人と会うのが大好きな人は、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を求めるがゆえに、積極的に人に会う、と考えられます。
一方、知らない人と会うのが苦手な方は、これらの「メリット=心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」は感じず、むしろ人と会うことに「デメリット」を感じているのではないでしょうか。
「デメリット」とは、たとえば、自分に自信がない、愛想を振りまくのが苦手、会話が弾まない・・・お相手から好意をもたれないのではないかという心配、ということになります。
自分にとって心地よい具体的な「メリット=心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」が得られなくて、デメリットばかり感じられるのですから、知らない人に会うことには抵抗が生まれます。
「人当たりを良くする」ことで、まずは自分の側からお相手に与える印象を良くして、それによって、あなたが「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」をお相手から得られるようになれば、人に会うのが苦になりません。
仕事上では、自分の「役割行動」つまり、上司や同僚、顧客から自分に期待されている役割を取る行動をすればよいので、上記のデメリットはあまり意識されません。
2.異性とのお付き合い経験の少ない方
異性とのお付き合い経験の少ない方は、異性とのお付き合いによる自分の「メリット=心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を感じてこなかった、またはそれほど重視してこなかった方、とも言えます。
それゆえ、婚活を始めてみると、人によっては、お相手と会うことによってどのようなメリットがあるのかイメージがわかず、どうお相手と向き合ってよいか「わからない」という感情がクローズアップされてしまうかもしれません。
結婚への希望が高まれば高まるほど、婚活を大事に考えて慎重になってしまい「どう対応したらよいのかわからない」「どうしよう」という気持ちがクローズアップされてしまい、その結果、人と会うことに抵抗感を感じてくる、ということになってしまう可能性もあります。
それゆえ、婚活を始めてみると、人によっては、お相手と会うことによってどのようなメリットがあるのかイメージがわかず、どうお相手と向き合ってよいか「わからない」という感情がクローズアップされてしまうかもしれません。
結婚への希望が高まれば高まるほど、婚活を大事に考えて慎重になってしまい「どう対応したらよいのかわからない」「どうしよう」という気持ちがクローズアップされてしまい、その結果、人と会うことに抵抗感を感じてくる、ということになってしまう可能性もあります。
3.私は理解されていないと感じている方
世の中は理不尽なことが多いので、多かれ少なかれ、このような感覚は誰しも抱いているように思います。
アルフレッド・アドラーさんは、おおむね10歳くらいまでに、人生における基本的な態度「ライフスタイル」が形成されると言っています。
10歳くらいの子供が考えることですから、合理的機能的でないことも十分にあり得ますが、それでも人は、人は一生その基本的な態度「ライフスタイル」を使い続けると、アドラーさんは言っています。
幼少期に、両親から「理不尽な対応をされ」、「人(=子供にとって親は世間全般の人の代表格)は自分に対して理不尽な対応をするから、いつも気を抜いてはいけない、警戒しなければいけない」という「ライフスタイル」を形成した方は、社会に出ても「理不尽な対応をされている」と感じ「自分が理解されない、(良い)評価が得られない」という感覚(不満)を抱き、いつも自分が公正に扱われるように「要求」する行動とるようになるかもしれません。
「自分が理解されない、(良い)評価が得られない」という感覚(不満)を抱き、いつも自分が公正に扱われるように「要求」する行動とっているとしたら、お相手は負担に感じるでしょうから、「人当たりが良い」人とは認めてもらえない可能性が高いでしょう。
「自分が周囲や相手から、理解されない、好意をもたれない」という(その多くは明確ではない)感覚がある場合には、「ライフスタイル」に起因しているのかもしれません。
ここでご注意いただきたいことは、ライフスタイルの形成について、あなたに責任があるわけではないのですが、もしあなたの「ライフスタイル」を使い続けることにデメリットがあるなら、そのデメリットを受け続けるのはあなた、ということになります。
さらに、あたなたの「ライフスタイル」を変えられるのは、あなたしかいません。この点は心に刻まなければなりません。
心が休まらない、追立てられている感じがする、不満足感が強いという感覚があるのであれば、自分のライフスタイル、基本的な人生態度をみなおしてみる価値はあります。
アルフレッド・アドラーさんは、おおむね10歳くらいまでに、人生における基本的な態度「ライフスタイル」が形成されると言っています。
10歳くらいの子供が考えることですから、合理的機能的でないことも十分にあり得ますが、それでも人は、人は一生その基本的な態度「ライフスタイル」を使い続けると、アドラーさんは言っています。
幼少期に、両親から「理不尽な対応をされ」、「人(=子供にとって親は世間全般の人の代表格)は自分に対して理不尽な対応をするから、いつも気を抜いてはいけない、警戒しなければいけない」という「ライフスタイル」を形成した方は、社会に出ても「理不尽な対応をされている」と感じ「自分が理解されない、(良い)評価が得られない」という感覚(不満)を抱き、いつも自分が公正に扱われるように「要求」する行動とるようになるかもしれません。
「自分が理解されない、(良い)評価が得られない」という感覚(不満)を抱き、いつも自分が公正に扱われるように「要求」する行動とっているとしたら、お相手は負担に感じるでしょうから、「人当たりが良い」人とは認めてもらえない可能性が高いでしょう。
「自分が周囲や相手から、理解されない、好意をもたれない」という(その多くは明確ではない)感覚がある場合には、「ライフスタイル」に起因しているのかもしれません。
ここでご注意いただきたいことは、ライフスタイルの形成について、あなたに責任があるわけではないのですが、もしあなたの「ライフスタイル」を使い続けることにデメリットがあるなら、そのデメリットを受け続けるのはあなた、ということになります。
さらに、あたなたの「ライフスタイル」を変えられるのは、あなたしかいません。この点は心に刻まなければなりません。
心が休まらない、追立てられている感じがする、不満足感が強いという感覚があるのであれば、自分のライフスタイル、基本的な人生態度をみなおしてみる価値はあります。
Ⅱ.「人当たりをよくする」と、婚活でどのような良いことがあるのでしょうか?
1.印象のよい「プロフィール写真」になる
「人当たりをよくする」と、「相手に与える感じや印象をよくする」という効果があります。
プロフィール写真で「相手に与える感じや印象をよくする」ことができます。
写真館で、口角をあげてください、イーって言ってみてください、と言われて口元は微笑んでいても、「目が笑っていない」写真が出来上がることがあります。
それは「口角をあげる」「テクニック」だからです。
カメラマンはあなたのベストな表情を引き出そうとしますが、「テクニック」には限界があります。
カメラマンの「テクニック」であなた自身は変わらないからです。
あなた自身が「人当たりのよい」人になるしかありません。
そして「人当たりがよい人になる」と自分も楽になります。あれこれ考えずに不満足感を抱くことが少なくなるからです。
プロフィール写真で「相手に与える印象が良」くなれば、多くの方に関心を持ってもらえます。
多くの方に関心を持ってもらえれば、お見合いの申受けの増加につながります。
お見合いの申受けの増加は、出会いの幅を広げお見合い数の増加につながります。
お見合い数の増加は、理想の方のとの出会いの可能性を高めます。
「成婚主義」の立場からは「お見合いなくして成婚なし」なのです。
プロフィール写真で「相手に与える感じや印象をよくする」ことができます。
写真館で、口角をあげてください、イーって言ってみてください、と言われて口元は微笑んでいても、「目が笑っていない」写真が出来上がることがあります。
それは「口角をあげる」「テクニック」だからです。
カメラマンはあなたのベストな表情を引き出そうとしますが、「テクニック」には限界があります。
カメラマンの「テクニック」であなた自身は変わらないからです。
あなた自身が「人当たりのよい」人になるしかありません。
そして「人当たりがよい人になる」と自分も楽になります。あれこれ考えずに不満足感を抱くことが少なくなるからです。
プロフィール写真で「相手に与える印象が良」くなれば、多くの方に関心を持ってもらえます。
多くの方に関心を持ってもらえれば、お見合いの申受けの増加につながります。
お見合いの申受けの増加は、出会いの幅を広げお見合い数の増加につながります。
お見合い数の増加は、理想の方のとの出会いの可能性を高めます。
「成婚主義」の立場からは「お見合いなくして成婚なし」なのです。
2.お見合いに対して気が楽になる
「お見合いが楽になる」とは、お見合いに対する不安が少なくなる、抵抗が少なくなる、ということです。
不安は少なからず、お見合いをためらわせる方向に向かいます。
成婚するためにはお見合いをたくさんする必要があります。
「人当たりを良くする」とは、「自分が楽になる」ということでもあります。
自分の気持ちを抑えて「愛想よくする」ことでも「ニコニコ」し続けることでもありません。
サマリーで『自分を徹底的に肯定することから始めます。自分を「抑える」のではなく、自分を徹底的に肯定して、次のステップで自分と同じように周囲の方も、初めてお会いする方も肯定します。』とすでにお話しました。
自分を徹底的に肯定することから始めるので、まずは「自分が楽に」なります。
不安は少なからず、お見合いをためらわせる方向に向かいます。
成婚するためにはお見合いをたくさんする必要があります。
「人当たりを良くする」とは、「自分が楽になる」ということでもあります。
自分の気持ちを抑えて「愛想よくする」ことでも「ニコニコ」し続けることでもありません。
サマリーで『自分を徹底的に肯定することから始めます。自分を「抑える」のではなく、自分を徹底的に肯定して、次のステップで自分と同じように周囲の方も、初めてお会いする方も肯定します。』とすでにお話しました。
自分を徹底的に肯定することから始めるので、まずは「自分が楽に」なります。
3.お見合いでお相手に与える印象が良くなる
「人当たりを良くする」には、自分を肯定して、自分以外の人を肯定します。
自分を肯定するので、自分が「嫌われたらどうしよう」とか「嫌な人だとおもわれたらどうしよう」という不安は減少します。
他者も肯定するので、お相手への自然な敬意が生まれます。あなたがお相手に自然な敬意を持っていて、お相手を尊重しているならば、お相手はあなたに良い印象を持ちます。
「不安」があると、その場に集中できず「不安を感じている自分」に注意が向かってしまいます。「不安を感じている自分」に注意が向かうと、「お相手」へ注意を向けれることが出来ず、ちぐはぐな受け答えをしたり、会話が気持ちよく進まない、ということになります。
自分を肯定するので、自分が「嫌われたらどうしよう」とか「嫌な人だとおもわれたらどうしよう」という不安は減少します。
他者も肯定するので、お相手への自然な敬意が生まれます。あなたがお相手に自然な敬意を持っていて、お相手を尊重しているならば、お相手はあなたに良い印象を持ちます。
「不安」があると、その場に集中できず「不安を感じている自分」に注意が向かってしまいます。「不安を感じている自分」に注意が向かうと、「お相手」へ注意を向けれることが出来ず、ちぐはぐな受け答えをしたり、会話が気持ちよく進まない、ということになります。
4.交際がうまくゆくようになる
自分を肯定して他者も肯定するのですから、自分の気持ちに正直になりますし、相手の気持ちも受け止められるようになります。
自分の気持ちに正直になることで、一緒に楽しむことや喜ぶことが出来ます。
お相手への自分の感情をしっかりと確認することができます。より交際が深くなれば、不快に感じたこともキチンとお相手に伝えられるでしょう。
感情のやり取りができるようになると、お相手とのきずなは深まります。
自分の気持ちに正直になることで、一緒に楽しむことや喜ぶことが出来ます。
お相手への自分の感情をしっかりと確認することができます。より交際が深くなれば、不快に感じたこともキチンとお相手に伝えられるでしょう。
感情のやり取りができるようになると、お相手とのきずなは深まります。
Ⅲ.「人当たりをよくする」=「自分を抑制する」ということではありません。
1.「自分を抑える」ことではありません
愛想のよい人が「自分のメリット」を求めている、それならば「自分のメリットを求めない」、「自分の欲求を抑えればよい」のでしょうか。
「自分の欲求を抑えるのも」あまり良い結果を生みません。
なぜなら欲求を抑えたからといって、欲求がなくなるわけではないからです。
なくならないのですから、押さえ続けたものは、常に出口を求めるでしょう。
出口ない欲求=エネルギーはやがて、あなたに攻撃の矛先を向けるでしょう。
あなたの中にたまった出口のないエネルギーが、自分自身の攻撃に向かうと、あなたは「落ち込み」ます。
「うまくゆかないから」落ち込むのではなく、出口を見つけられないエネルギーが「うまくいかない、私はダメな人」と「自分を攻撃する」から落ち込むのです。
うまくゆかないのは「自分に原因がある」のではなく「周囲の人に原因がある」と考えれば、不満を抱き(不満は怒りです)、周囲を攻撃(怒りをぶつける)するでしょう。
周囲を攻撃したからといって、周囲の人はあなたの期待通りに振舞う義務はないので、結果としてさらに不満、つまりは怒りがつのります。
解決策としては、欲求は欲求として「認めてあげる」ことです。
「認めてあげる」と欲求はおとなしくなります。
「自分の欲求を抑えるのも」あまり良い結果を生みません。
なぜなら欲求を抑えたからといって、欲求がなくなるわけではないからです。
なくならないのですから、押さえ続けたものは、常に出口を求めるでしょう。
出口ない欲求=エネルギーはやがて、あなたに攻撃の矛先を向けるでしょう。
あなたの中にたまった出口のないエネルギーが、自分自身の攻撃に向かうと、あなたは「落ち込み」ます。
「うまくゆかないから」落ち込むのではなく、出口を見つけられないエネルギーが「うまくいかない、私はダメな人」と「自分を攻撃する」から落ち込むのです。
うまくゆかないのは「自分に原因がある」のではなく「周囲の人に原因がある」と考えれば、不満を抱き(不満は怒りです)、周囲を攻撃(怒りをぶつける)するでしょう。
周囲を攻撃したからといって、周囲の人はあなたの期待通りに振舞う義務はないので、結果としてさらに不満、つまりは怒りがつのります。
解決策としては、欲求は欲求として「認めてあげる」ことです。
「認めてあげる」と欲求はおとなしくなります。
2.愛想よくすること、でもありません
愛想は悪いより、良いほうが絶対に良いですが、愛想がよければ「お相手の良い印象を与えられる」のか、というと少し違うように思います。
人間は、初対面の人との面談は、相手がどのようなひとなのかと少し警戒しますから、最初に、私は「あなたの味方ですよ」という態度を示してして好意を得ようとします。
これは自然なことです。
とはいえ、あまり愛想がよすぎると「この人はいい人だ」という思いよりも「何か下心があるのではないか」ともとられかねません。
そう考えると過度に「愛想がよい」こともよい印象を与えません。
「知らない人と会うのが苦手な方」のところでもお話したように、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を「欲」と考えると「愛想がよい」人には、自分のメリットを求める期待があり、相手に良い印象を与えるよう振る舞い、相手にも好意をもってもらえれば、それは「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」=「メリット」を期待している人ということになります。
この人を「だまそう」とかいう気持ちはないにしても、「愛想よくしている人」は「自分のメリット」を求めている、と言えます。
不自然に「愛想がよい」人に、「何か下心があるのではないか」と感じてもそれは誤りではないことになります。
「人当たりを良くする」ためには「愛想よくすればよい」というわけではない理由です。
人間は、初対面の人との面談は、相手がどのようなひとなのかと少し警戒しますから、最初に、私は「あなたの味方ですよ」という態度を示してして好意を得ようとします。
これは自然なことです。
とはいえ、あまり愛想がよすぎると「この人はいい人だ」という思いよりも「何か下心があるのではないか」ともとられかねません。
そう考えると過度に「愛想がよい」こともよい印象を与えません。
「知らない人と会うのが苦手な方」のところでもお話したように、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を「欲」と考えると「愛想がよい」人には、自分のメリットを求める期待があり、相手に良い印象を与えるよう振る舞い、相手にも好意をもってもらえれば、それは「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」=「メリット」を期待している人ということになります。
この人を「だまそう」とかいう気持ちはないにしても、「愛想よくしている人」は「自分のメリット」を求めている、と言えます。
不自然に「愛想がよい」人に、「何か下心があるのではないか」と感じてもそれは誤りではないことになります。
「人当たりを良くする」ためには「愛想よくすればよい」というわけではない理由です。
Ⅳ.それでは「人当たりがよくなる」とはどういうことでしょうか?
1.答え
自分と周囲の人を完全にパリティ(同等、等価)ととらえ、それを生き方の基礎とすることです。
言い換えると、自分を肯定して自分を大事にする感覚を養い、自分を大事にする感覚を他者にも拡大して、他者を肯定して尊重することです。
自分を肯定するとは、自分の欲求を肯定することです。自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持つことです。
自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持ち、うまくゆかなくても自分を責めず、良いことが合ったら素直に喜ぶ、そして他者も、そのような心の在り方であることを認め、その様であってほしいと望むことです。
自分の心の中にある、自分と他者に対する人間観や態度は、言葉や行動となって現れます。
言い換えると、自分を肯定して自分を大事にする感覚を養い、自分を大事にする感覚を他者にも拡大して、他者を肯定して尊重することです。
自分を肯定するとは、自分の欲求を肯定することです。自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持つことです。
自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持ち、うまくゆかなくても自分を責めず、良いことが合ったら素直に喜ぶ、そして他者も、そのような心の在り方であることを認め、その様であってほしいと望むことです。
自分の心の中にある、自分と他者に対する人間観や態度は、言葉や行動となって現れます。
2.交流分析の「人生態度」の考え方で説明すると
交流分析では、4つの「人生態度」を想定しています。
自分についての「肯定」「否定」、他者についての「肯定」「否定」という認識を組み合わせると、4つの「人生態度」が出来上がります。
自己肯定×他者肯定
私もあなたもOK 自分も他者も大切にすることができて、自分をありのままに受容できます。他の者とともに楽しんだり喜んだりすることが出来ます。
自己肯定×他者否定
私はOK、あなたはNOT OK 他者より自分が勝っていると感じています。他者から苦労を強いられ犠牲になっていると感じち。心が落ち着かず攻撃的になることもあります。
自己否定×他者肯定
私はNOT OK、あなたはOK 他者より自分が劣っているという感じが常に付きまとっています。心配や後悔が多く、居場所がない感覚、時間に追われているような感覚にとらわれがちになります。
自己否定×他者否定
わたしもあなたもOK 他者に対して常に疎外感を感じています。劣等感、無気力、恐怖、絶望感を強く感じます。深く落ち込むことがあります。
つまり「自己肯定」×「他者肯定」という人生態度を取ればよいのです。
自分についての「肯定」「否定」、他者についての「肯定」「否定」という認識を組み合わせると、4つの「人生態度」が出来上がります。
自己肯定×他者肯定
私もあなたもOK 自分も他者も大切にすることができて、自分をありのままに受容できます。他の者とともに楽しんだり喜んだりすることが出来ます。
自己肯定×他者否定
私はOK、あなたはNOT OK 他者より自分が勝っていると感じています。他者から苦労を強いられ犠牲になっていると感じち。心が落ち着かず攻撃的になることもあります。
自己否定×他者肯定
私はNOT OK、あなたはOK 他者より自分が劣っているという感じが常に付きまとっています。心配や後悔が多く、居場所がない感覚、時間に追われているような感覚にとらわれがちになります。
自己否定×他者否定
わたしもあなたもOK 他者に対して常に疎外感を感じています。劣等感、無気力、恐怖、絶望感を強く感じます。深く落ち込むことがあります。
つまり「自己肯定」×「他者肯定」という人生態度を取ればよいのです。
3.とはいえ人生態度を根本から変えるのはそんなに簡単ではありません
もしあなたの人生態度が「自己肯定」×「他者肯定」ではなかった場合、人生態度を変えることは、そんなに簡単ではありません。
今まで疑問に思うことなく継続してきたものを変えることだからです。
人生態度を変えるということは、礼儀作法を身に付けることや、処世術を身に付けることとは根本的に異なります。
アルフレッド・アドラーさんは、10歳くらいまでにライフスタイルを作り上げ、それを一生使い続けると言ました。
多くの人が自分が幼少期に作り上げた「ライフスタイル」を(もしかしたらあまり人生に適応的ではないかもしれないのに)顧みることなく使っているのです。
認知療法を作り上げたアーロン・T・ベックさんの認知モデルでは、幼少期とそれに続く時期に、自分自身と他者と世界についての認知である「中核信念」が形作られ、「中核信念」が非機能的なものであった場合、「思い込み」のようなものである「媒介信念」を介して、ネガティブな思考である「自動思考」を生み出し、ネガティブな自動思考が気分や行動に影響を及ぼすと考えました。
「中核信念」は、通常は意識に上ってきませんし、生活が順調である場合には、ネガティブな自動思考も生み出しませんから、簡単には認知できません。
翻って言えば、婚活に疲れている、うまくいかなくて落ち込んでいる、ネガティブな考えにとらわれているときには、アドラーさんの言う「ライフスタイル」、ベックさんの言う「中核信念」を検討してみる良い機会だと言えます。
これらを変えることは簡単ではないとはいえ、不可能なことではありません。
今まで疑問に思うことなく継続してきたものを変えることだからです。
人生態度を変えるということは、礼儀作法を身に付けることや、処世術を身に付けることとは根本的に異なります。
アルフレッド・アドラーさんは、10歳くらいまでにライフスタイルを作り上げ、それを一生使い続けると言ました。
多くの人が自分が幼少期に作り上げた「ライフスタイル」を(もしかしたらあまり人生に適応的ではないかもしれないのに)顧みることなく使っているのです。
認知療法を作り上げたアーロン・T・ベックさんの認知モデルでは、幼少期とそれに続く時期に、自分自身と他者と世界についての認知である「中核信念」が形作られ、「中核信念」が非機能的なものであった場合、「思い込み」のようなものである「媒介信念」を介して、ネガティブな思考である「自動思考」を生み出し、ネガティブな自動思考が気分や行動に影響を及ぼすと考えました。
「中核信念」は、通常は意識に上ってきませんし、生活が順調である場合には、ネガティブな自動思考も生み出しませんから、簡単には認知できません。
翻って言えば、婚活に疲れている、うまくいかなくて落ち込んでいる、ネガティブな考えにとらわれているときには、アドラーさんの言う「ライフスタイル」、ベックさんの言う「中核信念」を検討してみる良い機会だと言えます。
これらを変えることは簡単ではないとはいえ、不可能なことではありません。
Ⅴ.人当たりを良くする方法
「ライフスタイル」「人生態度」「中核信念」を変えるのは簡単ではないのですが、簡単ではないからこそ変えることが出来れば得られるものは大きいといえます。
「今更人生態度を変えてもメリットはないんじゃないか、いまで大きな問題もなくやってきているし」とお考えになるかもしれません。
ごもっともなお考えです。不利益を感じていないものに労力はかけたくないのが自然な反応です。
しかしながら、アドラーさんが言う「人は一生その基本的な態度「ライフスタイル」を使い続ける」ことが真実であり、ベックさんの認知モデルの「中核信念」が、多少なりとも非機能的であるものの、活性化していない状態、という場合には「脆弱性」を抱え続ける可能性がある、ということは言えると思います。
「今更人生態度を変えてもメリットはないんじゃないか、いまで大きな問題もなくやってきているし」とお考えになるかもしれません。
ごもっともなお考えです。不利益を感じていないものに労力はかけたくないのが自然な反応です。
しかしながら、アドラーさんが言う「人は一生その基本的な態度「ライフスタイル」を使い続ける」ことが真実であり、ベックさんの認知モデルの「中核信念」が、多少なりとも非機能的であるものの、活性化していない状態、という場合には「脆弱性」を抱え続ける可能性がある、ということは言えると思います。
1.マインドフルネスで「人当たりを良くする」方法
ここでは「慈悲の瞑想」をご紹介します。
自分と周囲の人を完全にパリティ(同等、等価)ととらえ、それを生き方の基礎とすることです。
「Ⅳ.それでは「人当たりがよくなる」とはどういうことでしょうか?」の「1.答え」でご説明した内容を再度掲載します。
『自分を肯定して自分を大事にする感覚を養い、自分を大事にする感覚を他者にも拡大して、他者を肯定して尊重することです。
自分を肯定するとは、自分の欲求を肯定することです。自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持つことです。
自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持ち、うまくゆかなくても自分を責めず、良いことが合ったら素直に喜ぶ、そして他者にもそのような心の在り方であることを認め、その様であってほしいと望むことです。』
慈悲の瞑想は、上記のような心に導くことを目的とした瞑想です。
「慈悲の瞑想」は、ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)の開始時に、集中力を高めるために行うことが推奨されており定型文を、心の中で唱えるものです。
ヴィパッサナー瞑想の開始時は集中力が高まっていませんので、「妄想」=「瞑想対象に意識を向けることを妨げる、今ここにないことがらについての想像」が生まれやすいため、比較的集中しやすい慈悲の瞑想を行い、集中力を高めることをねらっています。
「慈悲の瞑想」は、意味を改変しない限り、瞑想文を変えることが認められています。
瞑想文を変えることができますから、自分が「人当たりが良くなる」他者との向き合い方へと、自分を導くよう瞑想文を作ることもできます。
私は、現在はヴィパッサナー瞑想3、慈悲の瞑想7くらいの割合でやっています。ヴィパッサナー瞑想で自分を観て、ヴィパッサナー瞑想で見た自分を慈悲の瞑想で、自分が好ましいと考える方向へ向かわせることを意図しています。
ここでは「人当たりを良くする」という観点から「慈悲の瞑想」を紹介します。
慈悲の瞑想、マインドフルネスの効果性には根拠があるの?という疑問をお持ちの方は、先に次の「Ⅵ.慈悲の瞑想は、人間心理に基づいた合理的な方法」をご参照ください。
自分と周囲の人を完全にパリティ(同等、等価)ととらえ、それを生き方の基礎とすることです。
「Ⅳ.それでは「人当たりがよくなる」とはどういうことでしょうか?」の「1.答え」でご説明した内容を再度掲載します。
『自分を肯定して自分を大事にする感覚を養い、自分を大事にする感覚を他者にも拡大して、他者を肯定して尊重することです。
自分を肯定するとは、自分の欲求を肯定することです。自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持つことです。
自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持ち、うまくゆかなくても自分を責めず、良いことが合ったら素直に喜ぶ、そして他者にもそのような心の在り方であることを認め、その様であってほしいと望むことです。』
慈悲の瞑想は、上記のような心に導くことを目的とした瞑想です。
「慈悲の瞑想」は、ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)の開始時に、集中力を高めるために行うことが推奨されており定型文を、心の中で唱えるものです。
ヴィパッサナー瞑想の開始時は集中力が高まっていませんので、「妄想」=「瞑想対象に意識を向けることを妨げる、今ここにないことがらについての想像」が生まれやすいため、比較的集中しやすい慈悲の瞑想を行い、集中力を高めることをねらっています。
「慈悲の瞑想」は、意味を改変しない限り、瞑想文を変えることが認められています。
瞑想文を変えることができますから、自分が「人当たりが良くなる」他者との向き合い方へと、自分を導くよう瞑想文を作ることもできます。
私は、現在はヴィパッサナー瞑想3、慈悲の瞑想7くらいの割合でやっています。ヴィパッサナー瞑想で自分を観て、ヴィパッサナー瞑想で見た自分を慈悲の瞑想で、自分が好ましいと考える方向へ向かわせることを意図しています。
ここでは「人当たりを良くする」という観点から「慈悲の瞑想」を紹介します。
慈悲の瞑想、マインドフルネスの効果性には根拠があるの?という疑問をお持ちの方は、先に次の「Ⅵ.慈悲の瞑想は、人間心理に基づいた合理的な方法」をご参照ください。
2.基本となる「定型の慈悲の瞑想」
慈悲の瞑想には以下のような「定型の慈悲の瞑想」があります。
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私にさとりの光があらわれますように
私が幸せでありますように(三回繰り返し)
私と親しい人々が幸せでありますように
私と親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私と親しい人々の願いごとがかなえられますように
私と親しい人々にさとりの光があらわれますように
私と親しい人々が幸せでありますように(三回繰り返し)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(三回繰り返し)
私が嫌いな人々も幸せでありますように
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとり光があらわれますように
私を嫌いな人々も幸せでありますように
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとり光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
(終了)
これを心の中で唱えるだけです。声は出しても出さなくても構いません。
朝起きたときと寝る前が良いでしょう。仕事の合間でも構いません。
当然1日一度よりは2度、2度よりは3度の方が効果的です。
心を落ち着かせ、背筋を伸ばし(座って行って構いません)、呼吸を整え(静かで最小限の呼吸にする)、呼吸の流れに言葉を乗せるようにするのが理想的です。
注意していただきたいことは、心の中で唱えるときに、瞑想文に集中することです。
人間は定型の作業をやるときには、半ば無意識的に、たとえていえば省エネモードのように、意識のエネルギーを使わずにやります。
人間の脳は省エネできるところは、勝手に省エネしてしまいます。
瞑想については省エネモードは使わないでください。
単純な言葉の繰り返しなので、最初に取り組む方はすぐに「飽き」てしまいます。
この「飽き」に抵抗して、瞑想文に意識を向け続けることが「集中力」です。
駆け足でやろうとせず、急がず、緩やかになりすぎず、集中するようにしてください。
簡単な瞑想文ですが、瞑想文以外のことに意識が向かうと、言い間違えたり順序を間違えたりして、瞑想文を「噛ん」でしまいます。
「瞑想文以外のことに意識が向かった状態」が、一般的にいう「雑念」の生じた状態です。
瞑想文を「噛」まずに唱えられば集中している状態です。集中できるようになると心地よく感じるようになります。
心地よく感じれられるようになれば、下記で説明する「さとりの光」が現れる準備ができた段階と言えます。
集中できていない瞑想はあまり効果が出ません。
「悩み苦しみがなくなりますように」については、特段悩み苦しみはないけど・・・という方もいらっしゃると思います。
「悩み苦しみ」は、「嫌だと感じること」「苦痛に感じること」と理解してください。
「嫌だと感じること」「苦痛に感じること」ならばどなたにもあるでしょう。
「嫌だと感じること」「苦痛に感じること」を慢性的に感じると、ベックさんの認知モデルの「気分を下げる自動思考」を生み出しやすくしてしまいます。
「さとりの光」の部分には少し仏教的な色彩がありますが、「さとりの光があらわれますように」の意味するところは『幸せになるための新しい認識、悩み苦しみをなくすための新しい認識、願いごとをかなえるための新しい認識が現れますように』という意味だと理解してください。事実そういうことです。
定型の慈悲の瞑想は、平易な文言を唱える瞑想なので、集中力が高まりやすいという特徴があります。
ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)を開始する前に行う集中力を高める瞑想=サマタ瞑想として優れたものです。
慈悲の瞑想とともに、ヴィパッサナー瞑想を併用すると、定型の慈悲の瞑想の終わり部分では、明らかに集中力が高まっている自分が実感(観察)できます。
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私にさとりの光があらわれますように
私が幸せでありますように(三回繰り返し)
私と親しい人々が幸せでありますように
私と親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私と親しい人々の願いごとがかなえられますように
私と親しい人々にさとりの光があらわれますように
私と親しい人々が幸せでありますように(三回繰り返し)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(三回繰り返し)
私が嫌いな人々も幸せでありますように
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとり光があらわれますように
私を嫌いな人々も幸せでありますように
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとり光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
(終了)
これを心の中で唱えるだけです。声は出しても出さなくても構いません。
朝起きたときと寝る前が良いでしょう。仕事の合間でも構いません。
当然1日一度よりは2度、2度よりは3度の方が効果的です。
心を落ち着かせ、背筋を伸ばし(座って行って構いません)、呼吸を整え(静かで最小限の呼吸にする)、呼吸の流れに言葉を乗せるようにするのが理想的です。
注意していただきたいことは、心の中で唱えるときに、瞑想文に集中することです。
人間は定型の作業をやるときには、半ば無意識的に、たとえていえば省エネモードのように、意識のエネルギーを使わずにやります。
人間の脳は省エネできるところは、勝手に省エネしてしまいます。
瞑想については省エネモードは使わないでください。
単純な言葉の繰り返しなので、最初に取り組む方はすぐに「飽き」てしまいます。
この「飽き」に抵抗して、瞑想文に意識を向け続けることが「集中力」です。
駆け足でやろうとせず、急がず、緩やかになりすぎず、集中するようにしてください。
簡単な瞑想文ですが、瞑想文以外のことに意識が向かうと、言い間違えたり順序を間違えたりして、瞑想文を「噛ん」でしまいます。
「瞑想文以外のことに意識が向かった状態」が、一般的にいう「雑念」の生じた状態です。
瞑想文を「噛」まずに唱えられば集中している状態です。集中できるようになると心地よく感じるようになります。
心地よく感じれられるようになれば、下記で説明する「さとりの光」が現れる準備ができた段階と言えます。
集中できていない瞑想はあまり効果が出ません。
「悩み苦しみがなくなりますように」については、特段悩み苦しみはないけど・・・という方もいらっしゃると思います。
「悩み苦しみ」は、「嫌だと感じること」「苦痛に感じること」と理解してください。
「嫌だと感じること」「苦痛に感じること」ならばどなたにもあるでしょう。
「嫌だと感じること」「苦痛に感じること」を慢性的に感じると、ベックさんの認知モデルの「気分を下げる自動思考」を生み出しやすくしてしまいます。
「さとりの光」の部分には少し仏教的な色彩がありますが、「さとりの光があらわれますように」の意味するところは『幸せになるための新しい認識、悩み苦しみをなくすための新しい認識、願いごとをかなえるための新しい認識が現れますように』という意味だと理解してください。事実そういうことです。
定型の慈悲の瞑想は、平易な文言を唱える瞑想なので、集中力が高まりやすいという特徴があります。
ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)を開始する前に行う集中力を高める瞑想=サマタ瞑想として優れたものです。
慈悲の瞑想とともに、ヴィパッサナー瞑想を併用すると、定型の慈悲の瞑想の終わり部分では、明らかに集中力が高まっている自分が実感(観察)できます。
3.自分を徹底的に肯定するための「慈悲の瞑想」
ここでは自分を肯定するために、少し、くどいくらいに自分を肯定する瞑想文ご紹介します。
定型の慈悲の瞑想は、慈悲喜捨をはぐくむための有効な瞑想ですが、自分についての否定的な認知、つまりアドラーさんの「ライフスタイル」が自己に厳しかったり、交流分析の「人生態度」が「自己否定」であったり、ベックさんの「中核信念」が「非機能的」なものであった場合には、「私が幸せでありますように~」の部分がなかなか心に入ってきません。
そこで、自分の欲求を徹底的に肯定する慈悲の瞑想文を作りましたので、ご紹介します。
次のように感じている方には有効だと感じます。
・「自分の欲求を承認してもらえない」環境で育ち、自分自身が「欲求を主張すること」に「抑制的」だと感じる方
・他者の「利己的な行動」が気になりやすく、自分は「利己的な行動」にならなように気を付けている方
・自分の欲求を主張することが下手で、相手の欲求を優先してしまう方
慈悲の瞑想は、「自己の欲求の充足」を願うことから始まっています。
自己に欲求のあることを認識し、その欲求の充足を肯定して願い、次に他者も、自己と同じ欲求の充足を求めていることを認識して肯定し、欲求の充足を願う、という構造になります。
自己の欲求を認識して、その充足を肯定して願うことから、慈悲の瞑想はスタートします。
ですから自己に欲求があることを認識して、その欲求の充足を肯定し、充足を願うことが出来ない場合には、慈悲の瞑想は効果が表れません。
自己の「健全な」欲求を解放することを心掛けて、下記の瞑想をしてみてください。
また、自分が「こうしたい」と思うと同時に「しない方がいい理由「できない理由」を考えたりする方は、自分がそれを望んでもよいという感覚が持てないと同時に、自分にそれを「実現する力」があることを認識していない場合、「できないからやめておこう」と考える場合もあるでしょう。
ただし、ご自身についてこれらの傾向がある場合でも「自分はダメだ」とは思わないでください。
「その時々の環境の下で、その時々の自分のリソースで対処できる戦略=コーピング戦略」を取ってきた結果そのようになっただけです。
しかし、現在のあなたは、別のコーピング戦略が取れます。それは『自分にそれを「実現する力」=リソース』があるからです。
慈悲の瞑想は、自分を肯定し、その肯定の感情を他者にも及ぼす瞑想です。
自分で自分を認めてあげて肯定してあげてください。
肯定の感情を他者に及ぼすことで、「人当たりを良くする」効果を狙っています。
ですから、自分の欲求を肯定できないと、他者へ及ぼす肯定の感情もないことになります。
少し注意点があります。
この瞑想ににより、今までとは異なる心理的態度になり、行動に変化が現れた場合、多少行き過ぎたりしてうまくいかないこともあります。
自分の欲求や考えを素直に伝えたら、周囲の人から引かれた、というようなケースを思い浮かべてください。
それはあなたの心が変わり、今までとは違う外界への働きかけ方をしたため、と思ってください。
自分に対する応援歌と思って、軽い気持ちでやってみてください。
私が幸せでありますように
私は幸せであることを望んでよい存在です
私は幸せであることを許されている存在です
私は幸せを実現する力をもった存在です
私が幸せであるよう心から願います
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私は悩み苦しみがなくなることを望んでよい存在です
私は悩み苦しみがなくなることを許されている存在です
私は悩み苦しみをなくす力をもった存在です
私は悩み苦しみがなくなることを心から願います
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私は願いごとをかなえることを望んでよい存在です
私は願いごとをかなえることを許されている存在です
私は願いごとをかなえる力をもった存在です
私は願いごとがかなえられるよう心より願います
私の願いごとがかなえられますように
私にさとりの光があらわれますように
私はさとりの光があらわれることを望んでよい存在です
私はさとりの光があらわれることを許されている存在です
私はさとりの光があらわれる力を持っています
私にさとりの光があらわれるよう心より願います
私にさとりの光があらわれますように
私が幸せでありますように
私は幸せであることを望んでよい存在です
私は幸せであることを許されている存在です
私は幸せを実現する力をもった存在です
私が幸せであるよう心から願います
私が幸せでありますように(以上三回繰り返し)
お気づきかと思いますが、この瞑想には「周囲から何かを得る」のたぐいの内容は入っていません。
外界(あなたを取り巻く環境)は、あなたが直接コントロールできないからです。コントロールできないことは願っても意味がありません。
慈悲の瞑想が対象とするのは、あなたの「心」のあり方、心の外界のとらえ方、言い換えればあなたの「認知」です。
自分がコントロールできるのは自分だけ、自分をコントロールするには自分の「認知」を変える必要があります。
自分も他者も幸せであれと願う心「認知」を作ることで、自分も他者も大切にする心を養うことが目的です。
自分を大切にすることを心がければ、あなたの表情が変わり、あなたの言葉が変わり、あなたの行動が変わります。
あなたの表情が変わり、あなたの言葉が変わり、あなたの行動が変われば、他者のあなたへの印象や評価が変わります。
他者のあなたへの印象や評価が変われば、あなたは周囲からの反応の変化を受けて止めて確実に「人たりの良い」人になります。
定型の慈悲の瞑想は、慈悲喜捨をはぐくむための有効な瞑想ですが、自分についての否定的な認知、つまりアドラーさんの「ライフスタイル」が自己に厳しかったり、交流分析の「人生態度」が「自己否定」であったり、ベックさんの「中核信念」が「非機能的」なものであった場合には、「私が幸せでありますように~」の部分がなかなか心に入ってきません。
そこで、自分の欲求を徹底的に肯定する慈悲の瞑想文を作りましたので、ご紹介します。
次のように感じている方には有効だと感じます。
・「自分の欲求を承認してもらえない」環境で育ち、自分自身が「欲求を主張すること」に「抑制的」だと感じる方
・他者の「利己的な行動」が気になりやすく、自分は「利己的な行動」にならなように気を付けている方
・自分の欲求を主張することが下手で、相手の欲求を優先してしまう方
慈悲の瞑想は、「自己の欲求の充足」を願うことから始まっています。
自己に欲求のあることを認識し、その欲求の充足を肯定して願い、次に他者も、自己と同じ欲求の充足を求めていることを認識して肯定し、欲求の充足を願う、という構造になります。
自己の欲求を認識して、その充足を肯定して願うことから、慈悲の瞑想はスタートします。
ですから自己に欲求があることを認識して、その欲求の充足を肯定し、充足を願うことが出来ない場合には、慈悲の瞑想は効果が表れません。
自己の「健全な」欲求を解放することを心掛けて、下記の瞑想をしてみてください。
また、自分が「こうしたい」と思うと同時に「しない方がいい理由「できない理由」を考えたりする方は、自分がそれを望んでもよいという感覚が持てないと同時に、自分にそれを「実現する力」があることを認識していない場合、「できないからやめておこう」と考える場合もあるでしょう。
ただし、ご自身についてこれらの傾向がある場合でも「自分はダメだ」とは思わないでください。
「その時々の環境の下で、その時々の自分のリソースで対処できる戦略=コーピング戦略」を取ってきた結果そのようになっただけです。
しかし、現在のあなたは、別のコーピング戦略が取れます。それは『自分にそれを「実現する力」=リソース』があるからです。
慈悲の瞑想は、自分を肯定し、その肯定の感情を他者にも及ぼす瞑想です。
自分で自分を認めてあげて肯定してあげてください。
肯定の感情を他者に及ぼすことで、「人当たりを良くする」効果を狙っています。
ですから、自分の欲求を肯定できないと、他者へ及ぼす肯定の感情もないことになります。
少し注意点があります。
この瞑想ににより、今までとは異なる心理的態度になり、行動に変化が現れた場合、多少行き過ぎたりしてうまくいかないこともあります。
自分の欲求や考えを素直に伝えたら、周囲の人から引かれた、というようなケースを思い浮かべてください。
それはあなたの心が変わり、今までとは違う外界への働きかけ方をしたため、と思ってください。
自分に対する応援歌と思って、軽い気持ちでやってみてください。
私が幸せでありますように
私は幸せであることを望んでよい存在です
私は幸せであることを許されている存在です
私は幸せを実現する力をもった存在です
私が幸せであるよう心から願います
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私は悩み苦しみがなくなることを望んでよい存在です
私は悩み苦しみがなくなることを許されている存在です
私は悩み苦しみをなくす力をもった存在です
私は悩み苦しみがなくなることを心から願います
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私は願いごとをかなえることを望んでよい存在です
私は願いごとをかなえることを許されている存在です
私は願いごとをかなえる力をもった存在です
私は願いごとがかなえられるよう心より願います
私の願いごとがかなえられますように
私にさとりの光があらわれますように
私はさとりの光があらわれることを望んでよい存在です
私はさとりの光があらわれることを許されている存在です
私はさとりの光があらわれる力を持っています
私にさとりの光があらわれるよう心より願います
私にさとりの光があらわれますように
私が幸せでありますように
私は幸せであることを望んでよい存在です
私は幸せであることを許されている存在です
私は幸せを実現する力をもった存在です
私が幸せであるよう心から願います
私が幸せでありますように(以上三回繰り返し)
お気づきかと思いますが、この瞑想には「周囲から何かを得る」のたぐいの内容は入っていません。
外界(あなたを取り巻く環境)は、あなたが直接コントロールできないからです。コントロールできないことは願っても意味がありません。
慈悲の瞑想が対象とするのは、あなたの「心」のあり方、心の外界のとらえ方、言い換えればあなたの「認知」です。
自分がコントロールできるのは自分だけ、自分をコントロールするには自分の「認知」を変える必要があります。
自分も他者も幸せであれと願う心「認知」を作ることで、自分も他者も大切にする心を養うことが目的です。
自分を大切にすることを心がければ、あなたの表情が変わり、あなたの言葉が変わり、あなたの行動が変わります。
あなたの表情が変わり、あなたの言葉が変わり、あなたの行動が変われば、他者のあなたへの印象や評価が変わります。
他者のあなたへの印象や評価が変われば、あなたは周囲からの反応の変化を受けて止めて確実に「人たりの良い」人になります。
3-2.自分を徹底的に肯定するための「慈悲の瞑想」その2
上記の『3.自分を徹底的に肯定するための「慈悲の瞑想」』の瞑想に集中できない方、あまり心に入ってこない方は、次の方法を試して下さい。
順番を入れ替えます。
最初に「生きとし生けるもの」を持ってきて、その次に「私」を持ってきます。
慈悲の瞑想は、自分を肯定し、その肯定の気持ちを他者に向けるという構造をとります。
この順序は、人は自分が一番大事だから、自分のことから始めて、自分を大事にする気持ちを養い、その気持ちを他者に向け、慈悲の心を養うためです。
つまり、慈悲の瞑想の、最初の原動力は「自己愛」出発的にしています。
「自己愛」が原動力にならない場合には、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という、究極の理念の側から入って、自分も「生きとし生けるもの」なのだから、自分もしあわせであり、苦しみをなくし、願いごとをかなえてよい存在だよね、という認識をはぐくむということも方法としてはあり得るでしょう。
最初に、生きとし生けるものへの肯定の感情を喚起し、生きとし生けるものである「私」も肯定されてよい存在、という構造にしました。
すべての生きるものは尊い、私もそのすべての生きるものに含まれるから、尊いですよね、という順序で自分を肯定します。
私も、時々このように入れ替えることをします。こちらの方が入りやすい時もあるためです。
上記の『3.自分を徹底的に肯定するための「慈悲の瞑想」』の瞑想が入ってこない方は試してください。
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(三回繰り返し)
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私にさとりの光があらわれますように
私が幸せでありますように(三回繰り返し)
私と親しい人々が幸せでありますように
私と親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私と親しい人々の願いごとがかなえられますように
私と親しい人々にさとりの光があらわれますように
私と親しい人々が幸せでありますように(三回繰り返し)
私が嫌いな人々も幸せでありますように
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとり光があらわれますように
私を嫌いな人々も幸せでありますように
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとり光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
(終了)
順番を入れ替えます。
最初に「生きとし生けるもの」を持ってきて、その次に「私」を持ってきます。
慈悲の瞑想は、自分を肯定し、その肯定の気持ちを他者に向けるという構造をとります。
この順序は、人は自分が一番大事だから、自分のことから始めて、自分を大事にする気持ちを養い、その気持ちを他者に向け、慈悲の心を養うためです。
つまり、慈悲の瞑想の、最初の原動力は「自己愛」出発的にしています。
「自己愛」が原動力にならない場合には、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という、究極の理念の側から入って、自分も「生きとし生けるもの」なのだから、自分もしあわせであり、苦しみをなくし、願いごとをかなえてよい存在だよね、という認識をはぐくむということも方法としてはあり得るでしょう。
最初に、生きとし生けるものへの肯定の感情を喚起し、生きとし生けるものである「私」も肯定されてよい存在、という構造にしました。
すべての生きるものは尊い、私もそのすべての生きるものに含まれるから、尊いですよね、という順序で自分を肯定します。
私も、時々このように入れ替えることをします。こちらの方が入りやすい時もあるためです。
上記の『3.自分を徹底的に肯定するための「慈悲の瞑想」』の瞑想が入ってこない方は試してください。
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(三回繰り返し)
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私にさとりの光があらわれますように
私が幸せでありますように(三回繰り返し)
私と親しい人々が幸せでありますように
私と親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私と親しい人々の願いごとがかなえられますように
私と親しい人々にさとりの光があらわれますように
私と親しい人々が幸せでありますように(三回繰り返し)
私が嫌いな人々も幸せでありますように
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとり光があらわれますように
私を嫌いな人々も幸せでありますように
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとり光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
(終了)
4.幸せを願う心を他者へ押し広げてゆく「慈悲の瞑想」
定型の慈悲の瞑想は、まず自分の幸せを願い、自分の幸せを願う心を、順次以下のように対象を押し広げてゆく構造を取っています。
①自分と親しい人々
②生きとし生けるもの
③私が嫌いな人々
④私を嫌いな人々
自分の幸せを願うことは、自分の欲求の肯定です。
自分の幸せを願うこと、自分の欲求を肯定することは、自分の「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」が起こることを願うので「欲」の肯定という側面があります。
自分の次に、自分が幸せを願いやすい「①自分と親しい人々」を持ってきて、他者への幸せを願う心を増幅します。
ちなみにアルボムッレ・スマナサーラ先生は、「①自分と親しい人々」は、「家族」が良いと言われています。
自分の次に、家族という「自分にとって大事」な対象に慈しみの心を向け、その心を確認し、②~④に慈しみの心を向けてゆきます。
②~④は、『自分の「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」』を願うことではありませんので、自分の「欲」に基づくものではありません。
慈悲の瞑想は、「自分の欲求を認識し、欲求の充足を肯定し、欲求の充足を願う」ことが動機でよいのですが、他者、つまり②~④へと慈悲の心を展開してゆくのは「欲」によってはできないことになります。
そこで登場するのが「意思」です。
「意思」によって、他者にも「自分の欲求があること」を認識し、「欲求の充足」を肯定し、「欲求の充足」を願います。
「③私が嫌いな人々」と「④私を嫌いな人々」は当然「②生きとし生けるもの」に含まれていますが、嫌いな人々、あなたを嫌っている人々も、あなたと同じ生命を持った生き物なのだから、「意思」をもって、そのことも忘れずに幸せを願いなさい、その理解と実践が「捨」ですよ、ということだと私は理解しています。
平易な文で、幸せを願う心の適用範囲を拡大してゆく瞑想であり、中核は「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うことにあると理解しています。
『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』は、道徳論からではありません。
ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想を続けていると必然的に『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』に至ります。
ヴィパッサナー瞑想を続けていると、自分のダメな部分も見えてきます。他者のダメな部分には目が行きやすいのですが、自分のダメな部分は気づかないこともあります。
慈悲の瞑想は、まず自己肯定です。ダメなところのある自分も肯定します。
そうするとダメなところのある他者も肯定せざるを得ないよね、という考え方に必然的に至ります。
あなたが嫌いな人、あなたを嫌いな人も、自分と同じ「命あるもの」として肯定せざるを得なくなります。
だから『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』に至ります。
自分を超越した道徳論からこのように感じるのではありません。
人は自分を一番大事に感じている、それゆえ自分を大事にしてよい、ならば他者も自分が一番大事だし、他者も大事にしなければならない、それは結局自分を大事にすることと同じだよね、という感覚が心の中に生まれるのです。
終局的に「生きているものは皆大切にすべきである」から「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願う瞑想に結実します。
難点は、「生きとし生けるもの」という概念が広漠としていてイメージがつかみにくいことです。
「生きとし生けるもの」にうまくリアリティがわかず、瞑想中に「生きとし生けるもの」のイメージを作ろとしてすると、そちらに注意が向かってしまい、瞑想の本来の目的を逸脱してしまいかねません。
そこで「生きとし生けるもの」にリアリティを持たせるため、以下のような瞑想文にしてみました。
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
私の目に映る人々はみな生きとし生けるものです
私の目に映る人々が幸せでありますように
私の目に映る人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の目に映る人々の願いごとがかなえられますように
私の目に映る人々にさとりの光があらわれますように
私の目に映る人々が幸せでありますように
私が嫌いな人々も生きとし生けるものです
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとりの光があらわれますように
私が嫌いな人々も幸せでありますように
私を嫌いな人々も生きとし生けるものです
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとりの光があらわれますように
私を嫌いな人々も幸せでありますように
(瞑想文以上)
「生きとし生けるもの」から「私の目に映る人々」ではだいぶ矮小化されていますが、あなたが日々接する人々について、幸せを願い、悩み苦しみがなくなることを願い、願いがかなえられることを願うことになりますから、これが心の中に定着するだけで心は相当に変化します。
少し瞑想文の意図することを補足しておきます。
私の目に映る人々が幸せでありますように
私の目に映る人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の目に映る人々の願いごとがかなえられますように
私の目に映る人々にさとりの光があらわれますように
私の目に映る人々が幸せでありますように
人は、神でも仏でもありませんから、すべての他者を直接的に幸せにしたり、悩み苦しみをなくしたり、願いごとをかなえたりすることはできません。
ですから、この瞑想文が意図することは、以下のような「心の態度」を持つこと、ということになります。
私は、私の目に映る人々が幸せであるよう願います
私は、私の目に映る人々の悩み苦しみがなくなるよう願います
私は、私の目に映る人々の願いごとがかなえられることを願います
私は、私の目に映る人々にさとりの光があらわれることを願います
私は、私の目に映る人々が幸せであるよう願います
朝は今日一日の行動を想定して瞑想し、夜は明日の行動を想定して瞑想し、電車やバスの中、仕事中に少し時間ができたときなどに、「私の目に映る人々が幸せでありますように」という一文を思い出してください。
これを続けていると、人が話しかけてくるようになることが増えます。
そうなったら、あなたがもつ雰囲気が確実に変わっている証拠です。
①自分と親しい人々
②生きとし生けるもの
③私が嫌いな人々
④私を嫌いな人々
自分の幸せを願うことは、自分の欲求の肯定です。
自分の幸せを願うこと、自分の欲求を肯定することは、自分の「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」が起こることを願うので「欲」の肯定という側面があります。
自分の次に、自分が幸せを願いやすい「①自分と親しい人々」を持ってきて、他者への幸せを願う心を増幅します。
ちなみにアルボムッレ・スマナサーラ先生は、「①自分と親しい人々」は、「家族」が良いと言われています。
自分の次に、家族という「自分にとって大事」な対象に慈しみの心を向け、その心を確認し、②~④に慈しみの心を向けてゆきます。
②~④は、『自分の「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」』を願うことではありませんので、自分の「欲」に基づくものではありません。
慈悲の瞑想は、「自分の欲求を認識し、欲求の充足を肯定し、欲求の充足を願う」ことが動機でよいのですが、他者、つまり②~④へと慈悲の心を展開してゆくのは「欲」によってはできないことになります。
そこで登場するのが「意思」です。
「意思」によって、他者にも「自分の欲求があること」を認識し、「欲求の充足」を肯定し、「欲求の充足」を願います。
「③私が嫌いな人々」と「④私を嫌いな人々」は当然「②生きとし生けるもの」に含まれていますが、嫌いな人々、あなたを嫌っている人々も、あなたと同じ生命を持った生き物なのだから、「意思」をもって、そのことも忘れずに幸せを願いなさい、その理解と実践が「捨」ですよ、ということだと私は理解しています。
平易な文で、幸せを願う心の適用範囲を拡大してゆく瞑想であり、中核は「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うことにあると理解しています。
『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』は、道徳論からではありません。
ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想を続けていると必然的に『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』に至ります。
ヴィパッサナー瞑想を続けていると、自分のダメな部分も見えてきます。他者のダメな部分には目が行きやすいのですが、自分のダメな部分は気づかないこともあります。
慈悲の瞑想は、まず自己肯定です。ダメなところのある自分も肯定します。
そうするとダメなところのある他者も肯定せざるを得ないよね、という考え方に必然的に至ります。
あなたが嫌いな人、あなたを嫌いな人も、自分と同じ「命あるもの」として肯定せざるを得なくなります。
だから『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』に至ります。
自分を超越した道徳論からこのように感じるのではありません。
人は自分を一番大事に感じている、それゆえ自分を大事にしてよい、ならば他者も自分が一番大事だし、他者も大事にしなければならない、それは結局自分を大事にすることと同じだよね、という感覚が心の中に生まれるのです。
終局的に「生きているものは皆大切にすべきである」から「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願う瞑想に結実します。
難点は、「生きとし生けるもの」という概念が広漠としていてイメージがつかみにくいことです。
「生きとし生けるもの」にうまくリアリティがわかず、瞑想中に「生きとし生けるもの」のイメージを作ろとしてすると、そちらに注意が向かってしまい、瞑想の本来の目的を逸脱してしまいかねません。
そこで「生きとし生けるもの」にリアリティを持たせるため、以下のような瞑想文にしてみました。
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
私の目に映る人々はみな生きとし生けるものです
私の目に映る人々が幸せでありますように
私の目に映る人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の目に映る人々の願いごとがかなえられますように
私の目に映る人々にさとりの光があらわれますように
私の目に映る人々が幸せでありますように
私が嫌いな人々も生きとし生けるものです
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとりの光があらわれますように
私が嫌いな人々も幸せでありますように
私を嫌いな人々も生きとし生けるものです
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとりの光があらわれますように
私を嫌いな人々も幸せでありますように
(瞑想文以上)
「生きとし生けるもの」から「私の目に映る人々」ではだいぶ矮小化されていますが、あなたが日々接する人々について、幸せを願い、悩み苦しみがなくなることを願い、願いがかなえられることを願うことになりますから、これが心の中に定着するだけで心は相当に変化します。
少し瞑想文の意図することを補足しておきます。
私の目に映る人々が幸せでありますように
私の目に映る人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の目に映る人々の願いごとがかなえられますように
私の目に映る人々にさとりの光があらわれますように
私の目に映る人々が幸せでありますように
人は、神でも仏でもありませんから、すべての他者を直接的に幸せにしたり、悩み苦しみをなくしたり、願いごとをかなえたりすることはできません。
ですから、この瞑想文が意図することは、以下のような「心の態度」を持つこと、ということになります。
私は、私の目に映る人々が幸せであるよう願います
私は、私の目に映る人々の悩み苦しみがなくなるよう願います
私は、私の目に映る人々の願いごとがかなえられることを願います
私は、私の目に映る人々にさとりの光があらわれることを願います
私は、私の目に映る人々が幸せであるよう願います
朝は今日一日の行動を想定して瞑想し、夜は明日の行動を想定して瞑想し、電車やバスの中、仕事中に少し時間ができたときなどに、「私の目に映る人々が幸せでありますように」という一文を思い出してください。
これを続けていると、人が話しかけてくるようになることが増えます。
そうなったら、あなたがもつ雰囲気が確実に変わっている証拠です。
Ⅵ.慈悲の瞑想は、人間心理に基づいた合理的な方法
慈悲の瞑想は、おまじないでも、願いが叶う呪文でもありません。
人間心理の観察に基づいた、きわめて合理的な、自分を、自分が願う方向へ変えてゆく方法論です。
ヴィパッサナー瞑想との併用が理想的ですが、慈悲の瞑想だけでも効果はあります。
人間心理の観察に基づいた、きわめて合理的な、自分を、自分が願う方向へ変えてゆく方法論です。
ヴィパッサナー瞑想との併用が理想的ですが、慈悲の瞑想だけでも効果はあります。
1.慈悲の瞑想の目指すもの
慈悲の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想に入る前に行うことが推奨されているサマタ瞑想=集中力を養う瞑想です。
ヴィパッサナー瞑想をより効果的に行うために、ヴィパッサナー瞑想開始時に集中力を高めるために行います。
しかしながら、慈悲の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想の補助的な位置づけの瞑想ではなく、それ自体でも効用を持っています。
慈悲の瞑想は、自己の欲求の肯定、自己の肯定から、その気持ちを他者に向けてゆくことで、気持ちを「意思」に昇華させる効果をねらっているように感じられます。
自己を肯定する「欲」を原動力として、自己を肯定する気持ち「慈悲」を養い、その気持ち「慈悲」を他者に向けてゆくことで、「慈悲」の気持ちを「意思」に昇華させ、意思を強化します。
これは慈悲の瞑想の協力なメリットです。
慈悲の瞑想は、一生懸命やれば「意思」を強くすることが出来ます。
慈悲の瞑想の目指すものは「四無量心」であり、「四無量心」を理解し「四無量心」を実践した時に、「慈悲の瞑想」の効用が発揮されます。
その四無量心とは、すでにご説明した、
『自分を肯定して自分を大事にする感覚を養い、自分を大事にする感覚を他者にも拡大して、他者を肯定して尊重することです。
自分を肯定するとは、自分の欲求を肯定することです。自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持つことです。
自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持ち、うまくゆかなくても自分を責めず、良いことが合ったら素直に喜ぶ、そして他者も、そのような心の在り方であることを願い、その様であってほしいと望むこと』です。
四無量心とは、慈悲喜捨と説明されます。
慈悲喜捨とは、
慈:いたわる心を、自分についてはぐくみ、捨をつうじて他者にも向けてゆく
悲:悲しみを受け入れる心を、自分についてはぐくみ、捨をつうじて他者の悲しみも受け入れる
喜:喜ぶ心を、自分についてはぐくみ、捨をつうじて他者の喜びも自己の喜びとする
捨:自分と他者を分け隔てる心を捨てることで、慈悲喜の心を他者にも向けてゆく心理的態度
「生きとし生けるもの」に対して、分け隔てなく(=捨)、慈悲喜を向ける」=「自分と外界への向き合い方」を獲得することで、苦しまなくてよいことに苦しまなくなり、苦しまなくてよいことに苦しまないことで、智慧がうまれ、智慧は願い事の成就へとあなたを導きますよ、というが慈悲の瞑想の効用です。
この場合の「智慧がうまれ」の意味するところは、「あなたの悩み苦しみをなくすための新しい認識の獲得」「あなたの願いごとをかなえるための新しい認識の獲得」「あなたが幸せであるための新しい認識の獲得」ということです。
「慈悲の瞑想」を続けていると感じ方が変わってきます。
『Ⅰ.このブログがお役に立ちそうな方 1.知らない人と会うのが苦手な方』の項目で、『ヴィパッサナー瞑想では、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を「欲」ととらえます』とご説明しました。
私の場合は、ヴィパッサナー瞑想で自分の悩み苦しみ(後悔であることが多いです)を観て、後悔するに至った原因に、自分が心地よい感じて瞬間的にとる行動に「欲」や「怒り」があるがゆえに、結果として悩み苦しみこととなることを観(認識し)たときに、「慈悲の瞑想」が以下のような意味に理解されるようになりました。
わたしには嫌いな人も、わたしを嫌いな人もいます。わたしが「欲」や「怒り」から嫌な思いを経験しているように、わたしが嫌いな人も、私を嫌いな人も嫌な思いをしていて、その根底には「欲」や「怒り」がある。
だから嫌いな人、嫌われている人であっても、「欲」や「怒り」を抱えて他者に嫌な思いをさせているし自分も嫌な思いをしているという「大きな」共通性の前では、すべて同等である。そうであれば、「生きとし生けるもの」として、自分も自分の嫌いな人、嫌われている人も同等である。
これが「悲」であるように感じます。「悲」は自分に生じた悲しいを感情を「捨」を通じて、他者にも及ぼすことです。
「悲」は、自分に新しい認識=智が生じたことによる心の変化であって、「役割行動」から生まれてくる振る舞いではなく、また自分が心地よい感じて瞬間的にとる行動「欲」から生じる振る舞いでもありません。
この考えを敷衍してゆけば「賞賛されることをしているから価値がある人」「重大犯罪を犯したから生きている価値がない人」という考え方は、「生きているだけで価値のある人が賞賛されることをしている」「生きているだけで価値のある人が貪りや怒り、無知から重大犯罪をおかしてしまった」という認識に転換されます。
慈悲の瞑想は、必然的に、生きているものは皆等しく価値がある、という考えに至ります。
また、慈悲の瞑想で、注意してもらいたいことは、嫌いな人、私を嫌っている人を好きになりなさい、とは言っていないことです。
例えばウソをついてもなんとも思わない人がいたならば、その人と積極的に付き合うことで、あなたは幸せになれるでしょうか。なれないように思います。
自分がその人と親交することで、自分が不幸になるであろう人を好きになる必要はないということです。自分が幸せであるためには必要なことです。
ただし、そういう人もいるということを認めることと、その人の行為を是認することとは別です。そういう人がいることは容認しつつも、行為は是認しないために「嫌いな人」をあえて慈悲の対象としている、ということのように思います。
そのうえで、嫌いでもよいが、嫌いなあの人も「命あるもの」「貪り」「怒り」「無知」を抱え悩み苦しんでいるがゆえにあなたに嫌われるような行動をとっているのかもしれないから、それは悲しいことだと考えてあげればいいだけで、憎む必要も攻撃する必要もありませんよね、憎んだり攻撃したりすることはあなたの苦の原因になりますよね、ということであると理解しています。
「憎んだり攻撃したりすることはあなたの苦の原因になります」という部分は、すぐには同意いただけない部分かもしれません。
一般的には、嫌いな人に対するコーピング(対処法)は攻撃する、に結び付きやすいように思います。
攻撃する、というコーピングは、自分の心に生じた「嫌い」という感情=「苦」を、嫌いな人を攻撃するという行為で紛らわしている、と考えられます。
しかしながら「嫌い」という感情は、相手を認知したあなたの心の中に現れた感情です。
「嫌いな人」がいるのは、あなたが、あなたのこころの中に「嫌い」という感情をつくりだしたから、と言えます。
あなたが、嫌いな人を攻撃したならば、あなたの心の中に作り出した「嫌い」という感情によって生じたあなたの「苦」を紛らわすために、嫌いな人を攻撃するということになります。
そのように考えると、嫌いな人を攻撃するという行為は、相当に利己的、自己中心的な行為であると理解いただけると思います。
そしてより重要なことは、自分に、自分が嫌いな人を攻撃することを許すということは、あなたを嫌いな人は、あなたを攻撃することもある、という認知をあなたの中に生じさせます。
あなたは、あなたの「苦」を紛らわすために、嫌いな人を攻撃したのに、あなたは別の苦「あなたを嫌いな人は、あなたを攻撃するという認知」=心配を抱え込むことになります。
「人を裁いてはならない。人を裁いた剣で今度はあなたが裁かれるだろう。」
裁判をしてはいけない、ということではなく、自分の価値観で人を裁いてはならない、あなたの価値観が次はあなたをさばきますよ、ということではないでしょうか。
心が休まりません。人当たりは良くなります。
一方では、嫌われる人には、それなりの理由がある、ということもあるでしょうが、自分の心の中の「嫌い」という感情の扱い方、他者へのとのかかわり方には注意した方が良いです。
嫌いであっても「捨」の考え方は持ちなさい、そうすれば楽になりますよ、心を悩まさなくてよくなりますよ、ということでしょう。
「捨」はとても大事で、また得ることが難しい心です。
ヴィパッサナー瞑想をより効果的に行うために、ヴィパッサナー瞑想開始時に集中力を高めるために行います。
しかしながら、慈悲の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想の補助的な位置づけの瞑想ではなく、それ自体でも効用を持っています。
慈悲の瞑想は、自己の欲求の肯定、自己の肯定から、その気持ちを他者に向けてゆくことで、気持ちを「意思」に昇華させる効果をねらっているように感じられます。
自己を肯定する「欲」を原動力として、自己を肯定する気持ち「慈悲」を養い、その気持ち「慈悲」を他者に向けてゆくことで、「慈悲」の気持ちを「意思」に昇華させ、意思を強化します。
これは慈悲の瞑想の協力なメリットです。
慈悲の瞑想は、一生懸命やれば「意思」を強くすることが出来ます。
慈悲の瞑想の目指すものは「四無量心」であり、「四無量心」を理解し「四無量心」を実践した時に、「慈悲の瞑想」の効用が発揮されます。
その四無量心とは、すでにご説明した、
『自分を肯定して自分を大事にする感覚を養い、自分を大事にする感覚を他者にも拡大して、他者を肯定して尊重することです。
自分を肯定するとは、自分の欲求を肯定することです。自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持つことです。
自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持ち、うまくゆかなくても自分を責めず、良いことが合ったら素直に喜ぶ、そして他者も、そのような心の在り方であることを願い、その様であってほしいと望むこと』です。
四無量心とは、慈悲喜捨と説明されます。
慈悲喜捨とは、
慈:いたわる心を、自分についてはぐくみ、捨をつうじて他者にも向けてゆく
悲:悲しみを受け入れる心を、自分についてはぐくみ、捨をつうじて他者の悲しみも受け入れる
喜:喜ぶ心を、自分についてはぐくみ、捨をつうじて他者の喜びも自己の喜びとする
捨:自分と他者を分け隔てる心を捨てることで、慈悲喜の心を他者にも向けてゆく心理的態度
「生きとし生けるもの」に対して、分け隔てなく(=捨)、慈悲喜を向ける」=「自分と外界への向き合い方」を獲得することで、苦しまなくてよいことに苦しまなくなり、苦しまなくてよいことに苦しまないことで、智慧がうまれ、智慧は願い事の成就へとあなたを導きますよ、というが慈悲の瞑想の効用です。
この場合の「智慧がうまれ」の意味するところは、「あなたの悩み苦しみをなくすための新しい認識の獲得」「あなたの願いごとをかなえるための新しい認識の獲得」「あなたが幸せであるための新しい認識の獲得」ということです。
「慈悲の瞑想」を続けていると感じ方が変わってきます。
『Ⅰ.このブログがお役に立ちそうな方 1.知らない人と会うのが苦手な方』の項目で、『ヴィパッサナー瞑想では、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を「欲」ととらえます』とご説明しました。
私の場合は、ヴィパッサナー瞑想で自分の悩み苦しみ(後悔であることが多いです)を観て、後悔するに至った原因に、自分が心地よい感じて瞬間的にとる行動に「欲」や「怒り」があるがゆえに、結果として悩み苦しみこととなることを観(認識し)たときに、「慈悲の瞑想」が以下のような意味に理解されるようになりました。
わたしには嫌いな人も、わたしを嫌いな人もいます。わたしが「欲」や「怒り」から嫌な思いを経験しているように、わたしが嫌いな人も、私を嫌いな人も嫌な思いをしていて、その根底には「欲」や「怒り」がある。
だから嫌いな人、嫌われている人であっても、「欲」や「怒り」を抱えて他者に嫌な思いをさせているし自分も嫌な思いをしているという「大きな」共通性の前では、すべて同等である。そうであれば、「生きとし生けるもの」として、自分も自分の嫌いな人、嫌われている人も同等である。
これが「悲」であるように感じます。「悲」は自分に生じた悲しいを感情を「捨」を通じて、他者にも及ぼすことです。
「悲」は、自分に新しい認識=智が生じたことによる心の変化であって、「役割行動」から生まれてくる振る舞いではなく、また自分が心地よい感じて瞬間的にとる行動「欲」から生じる振る舞いでもありません。
この考えを敷衍してゆけば「賞賛されることをしているから価値がある人」「重大犯罪を犯したから生きている価値がない人」という考え方は、「生きているだけで価値のある人が賞賛されることをしている」「生きているだけで価値のある人が貪りや怒り、無知から重大犯罪をおかしてしまった」という認識に転換されます。
慈悲の瞑想は、必然的に、生きているものは皆等しく価値がある、という考えに至ります。
また、慈悲の瞑想で、注意してもらいたいことは、嫌いな人、私を嫌っている人を好きになりなさい、とは言っていないことです。
例えばウソをついてもなんとも思わない人がいたならば、その人と積極的に付き合うことで、あなたは幸せになれるでしょうか。なれないように思います。
自分がその人と親交することで、自分が不幸になるであろう人を好きになる必要はないということです。自分が幸せであるためには必要なことです。
ただし、そういう人もいるということを認めることと、その人の行為を是認することとは別です。そういう人がいることは容認しつつも、行為は是認しないために「嫌いな人」をあえて慈悲の対象としている、ということのように思います。
そのうえで、嫌いでもよいが、嫌いなあの人も「命あるもの」「貪り」「怒り」「無知」を抱え悩み苦しんでいるがゆえにあなたに嫌われるような行動をとっているのかもしれないから、それは悲しいことだと考えてあげればいいだけで、憎む必要も攻撃する必要もありませんよね、憎んだり攻撃したりすることはあなたの苦の原因になりますよね、ということであると理解しています。
「憎んだり攻撃したりすることはあなたの苦の原因になります」という部分は、すぐには同意いただけない部分かもしれません。
一般的には、嫌いな人に対するコーピング(対処法)は攻撃する、に結び付きやすいように思います。
攻撃する、というコーピングは、自分の心に生じた「嫌い」という感情=「苦」を、嫌いな人を攻撃するという行為で紛らわしている、と考えられます。
しかしながら「嫌い」という感情は、相手を認知したあなたの心の中に現れた感情です。
「嫌いな人」がいるのは、あなたが、あなたのこころの中に「嫌い」という感情をつくりだしたから、と言えます。
あなたが、嫌いな人を攻撃したならば、あなたの心の中に作り出した「嫌い」という感情によって生じたあなたの「苦」を紛らわすために、嫌いな人を攻撃するということになります。
そのように考えると、嫌いな人を攻撃するという行為は、相当に利己的、自己中心的な行為であると理解いただけると思います。
そしてより重要なことは、自分に、自分が嫌いな人を攻撃することを許すということは、あなたを嫌いな人は、あなたを攻撃することもある、という認知をあなたの中に生じさせます。
あなたは、あなたの「苦」を紛らわすために、嫌いな人を攻撃したのに、あなたは別の苦「あなたを嫌いな人は、あなたを攻撃するという認知」=心配を抱え込むことになります。
「人を裁いてはならない。人を裁いた剣で今度はあなたが裁かれるだろう。」
裁判をしてはいけない、ということではなく、自分の価値観で人を裁いてはならない、あなたの価値観が次はあなたをさばきますよ、ということではないでしょうか。
心が休まりません。人当たりは良くなります。
一方では、嫌われる人には、それなりの理由がある、ということもあるでしょうが、自分の心の中の「嫌い」という感情の扱い方、他者へのとのかかわり方には注意した方が良いです。
嫌いであっても「捨」の考え方は持ちなさい、そうすれば楽になりますよ、心を悩まさなくてよくなりますよ、ということでしょう。
「捨」はとても大事で、また得ることが難しい心です。
2.マインドフルネスとカウンセリングの共通点
ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)は、「individualism」が徹底しています。自己を超越した権威や価値観、救済手段は想定していません。
人間を超えたものの慈悲にすがるという発想は全くなく、自らが自らの体と心を観て、他者を観て、悩み苦しみを乗り越える方法を獲得し、慈悲喜捨の心をもって、この世を生きてゆきなさい、という思想です。
自己を超越した権威や価値観、救済手段は想定していませんし、人間を超えたものの慈悲にすがるという発想は全くありませんから、ご自身でやってもらうしかありません。
実はカウンセリングも同じ考え方です。
カウンセラーを援助者ということがあります。
これは、主体的に問題に取り組むのはクライアントであって、カウンセラーはクライアントの主体的な取り組みを補完する援助者である、という考え方からです。
クライアントの抱える問題は、クライアントが主体的に取り組まない限り、問題の解消には至りませんから、カウンセラーの役割は、クライアントの主体的な取り組みを促進する援助者である、ということです。
ですから、自分は「人当たりが良い」「人当たりがあまり良くない」についても、ご自身でご判断いただくことが必要です。
一律の基準があって「良い、悪い」を判断するものではありませんし、ましてや私が判断するものでもありません。
カウンセラーは、あなたの価値判断や意思決定に容喙(関与)しません。
カウンセラーは、「あなたの認識する課題」の解決を援助をすることが使命です。
また、カウンセリングもマインドフルネスも「苦痛」への認識が出発点であるように思います。
別に不都合がなければ、カウンセリングも受けようとは思わないでしょうし、マインドフルネスに取り組もうとも(能力開発等の意図がなければ)思わないでしょう。
私は、インフルエンザ後に無気力の状態に陥りました。
これではいけないと思いながらも、気力がわず、何もしたくない状態のときに、ジュディス・ベックの「認知行動療法実践ガイド」を読み、その中に事例として登場してくるエイブとマリアの症状が、程度の差はあるものの、自分にも共通する特徴があることに気付きました。
医師ではないので、診断は当然できませんが、インフルエンザ後の私はどうやら「うつ状態」であったようです。
「認知行動療法実践ガイド」のエイブとマリアに対するセラピストの提案を、私自身が実行し、少しづつ行動につかげることで、心理的にも楽になり、何もしたくない状態が改善されることも実感しました。
「5.マインドフルネスと認知行動療法」でも説明していますが、四聖諦もその出発点は、苦の認識です。
「苦聖諦(苦)とはこのようなものであり、知り尽くすべきであり、知り尽くした。」が最初に来ています。
このような考えを提示することによって、苦しんでいない人に、苦しみを無理に作り出すような結果になることは厳に慎まなければなりません。
しかし自分が苦しんでいること、その苦しみが何であるか、ということを知ることが、苦しみから逃れようと行動する動機となります。
「何とかしたい」という、「自発的」な考えが、カウンセリングにおいてもマインドフルネスにおいても、出発点となるように思います。
人間を超えたものの慈悲にすがるという発想は全くなく、自らが自らの体と心を観て、他者を観て、悩み苦しみを乗り越える方法を獲得し、慈悲喜捨の心をもって、この世を生きてゆきなさい、という思想です。
自己を超越した権威や価値観、救済手段は想定していませんし、人間を超えたものの慈悲にすがるという発想は全くありませんから、ご自身でやってもらうしかありません。
実はカウンセリングも同じ考え方です。
カウンセラーを援助者ということがあります。
これは、主体的に問題に取り組むのはクライアントであって、カウンセラーはクライアントの主体的な取り組みを補完する援助者である、という考え方からです。
クライアントの抱える問題は、クライアントが主体的に取り組まない限り、問題の解消には至りませんから、カウンセラーの役割は、クライアントの主体的な取り組みを促進する援助者である、ということです。
ですから、自分は「人当たりが良い」「人当たりがあまり良くない」についても、ご自身でご判断いただくことが必要です。
一律の基準があって「良い、悪い」を判断するものではありませんし、ましてや私が判断するものでもありません。
カウンセラーは、あなたの価値判断や意思決定に容喙(関与)しません。
カウンセラーは、「あなたの認識する課題」の解決を援助をすることが使命です。
また、カウンセリングもマインドフルネスも「苦痛」への認識が出発点であるように思います。
別に不都合がなければ、カウンセリングも受けようとは思わないでしょうし、マインドフルネスに取り組もうとも(能力開発等の意図がなければ)思わないでしょう。
私は、インフルエンザ後に無気力の状態に陥りました。
これではいけないと思いながらも、気力がわず、何もしたくない状態のときに、ジュディス・ベックの「認知行動療法実践ガイド」を読み、その中に事例として登場してくるエイブとマリアの症状が、程度の差はあるものの、自分にも共通する特徴があることに気付きました。
医師ではないので、診断は当然できませんが、インフルエンザ後の私はどうやら「うつ状態」であったようです。
「認知行動療法実践ガイド」のエイブとマリアに対するセラピストの提案を、私自身が実行し、少しづつ行動につかげることで、心理的にも楽になり、何もしたくない状態が改善されることも実感しました。
「5.マインドフルネスと認知行動療法」でも説明していますが、四聖諦もその出発点は、苦の認識です。
「苦聖諦(苦)とはこのようなものであり、知り尽くすべきであり、知り尽くした。」が最初に来ています。
このような考えを提示することによって、苦しんでいない人に、苦しみを無理に作り出すような結果になることは厳に慎まなければなりません。
しかし自分が苦しんでいること、その苦しみが何であるか、ということを知ることが、苦しみから逃れようと行動する動機となります。
「何とかしたい」という、「自発的」な考えが、カウンセリングにおいてもマインドフルネスにおいても、出発点となるように思います。
2-2マインドフルネスとカウンセリングの共通点 その2
カウンセリングの勉強を継続して行っています。
婚活カウンセリングの勉強ではなく、本来的な意味の「カウンセリング」の勉強です。当然婚活カウンセリングにも役に立ちます。
カウンセリングの基本的な考え方の一つに、カール・ロジャーズの「治療的人格変化の必要にして十分な条件」というものがあります。
この条件は、多くのカウンセリング理論が、カウンセリングを実施する際の「前提条件」としてしているようです。
「治療的人格変化の必要にして十分な条件」は以下の6つです。「6条件」を、諸富祥彦先生の「カール・ロジャーズ入門自分が自分になること」から、少し簡略化、補足して引用します。文責は当然宮﨑にあります。
1.二人(クライアントとカウンセラー)との間に心理的接触がある
2.クライエントは、不一致の状態、すなわち傷つきやすい不安な状態にいる
3.カウンセラーは、一致もしくは統合されている
4.カウンセラーは自分が「無条件の肯定的配慮を」をクライエントに対して持っていることを経験している
5.カウンセラーは、クライエントの内的基準枠を共感的に理解(共感的理解)していることを経験し、これをクライエントに伝えようとしている
6.クライエントには、カウンセラーが共感的理解と無条件の肯定を経験していることが、必要最低限は伝わっている
(「カール・ロジャーズ入門自分が自分になること」引用以上、以下は宮崎見解)
6つの条件のうち、カウンセラー側の態度もしくは状態についての3.4.5.を「中核3条件」ともいうようです。
3.の「一致もしくは統合されている」というのは2.の状態つまり「傷つきやすく不安定な状態」ではないことを前提に、5.の「クライエントの内的基準枠を共感的に理解」できる状態、つまり、自分の価値観やカウンセリング理論でクライエントを評価するといった態度ではなく、クライエントが、自分の感じ方で感じていることを理解=感じ取ることのできる状態、ということでもあるようです。
4.の「無条件の肯定的配慮」は、「あなたが、私の持っている条件に合致すれば受容しますが、そうでなければ受容しませんよ」という態度ではない、ということです。
これは大げさに言えばほぼ「人間界には自然には存在しない」心理的態度です。
カウンセラーは、カウンセリングにおいて、という条件付きですが、クライアントのお話を無条件で肯定的に聞きます。肯定して聞くのではありません。肯定も否定もしないという意味で「肯定的」ということです。「それは良いことだ」とか「良くないことだ」とかの評価はしません、という態度で聞きます、ということです。
ただし、これはクライアントのお話を「受容」します、ということであって、すべてを「是認」するのではありません。極端なたとえですが、「人を殺したい」とクライエントが語ったら「人を殺したいと思うことがあるのですね」とクライエントがそのように考えたことは「受容」しますが、「人を殺す」ということを「是認」はしません。
5.の「共感的に理解する」ことの内容については、上記の3.でご説明しました。
共感的理解については、カウンセラーが「共感的に理解した」ことを「クライエントに伝えようとしている」ことが重要な意味をもつようです。「クライエントに伝え」るためには、直接的には言葉で伝えることになります。
つまりクライエントは、カウンセラーの言葉によって、クライエント自身が感じていることをより一層、明確に理解する、という経験をするかもしれない、ということです。
そしてもし、クライエントが、「カウンセラーの言葉により、クライエント自身が感じていることをより一層、明確に理解する」という経験をしたならば、カウンセラーの「共感的理解」を通して、クライエントは「受容され」たこと、「自身の考えや希望」が「肯定的」に理解されたことを感じ、その体験が、クライエントが、クライアント自身の心理的な苦悩の原因となった考え方を整理し、それに基づいて行動を組み替えることによって「不一致の状態、すなわち傷つきやすい不安な状態にいる」自分を変えてゆく契機もしくは勇気を得ることになる、可能性があるということであろうと思います。
ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)は、まず体の動きの観察と言葉による確認から始めて、体の感覚の観察と言葉による確認、心の観察と言葉による確認へと進みます。
ここでは観察したこと=気づき、に対する「言葉による確認」が決定的な意味を持ちます。
「カウンセラーの言葉により、クライエント自身が感じていることをより一層、明確に理解する」ということは、カウンセラーの言葉によって、クライエント自身が「言葉よる確認」を行ったこと、それにより、考え方が整理される契機となり、それによって行動の変容につながることが期待される、とも言い換えられます。
あまりマインドフルネスに引き付けて理解することは抑制的であるべきですが、「言葉による確認」は自己のものであれ、他者によるものであれ重要な意味を持つとは言えるでしょう。
さらに瞑想との関係では、ロジャーズの6条件に付いて考えた後では、四無量心の理解に変化が生まれたように思います。
ただし誤解しないでください。
「ロジャーズの6条件」を、「四無量心」で理解しようとしているのではありません。
「ロジャーズの6条件」について考えてみると、「四無量心」への理解が少し変わってくる、ということです。
(まだ続きますが、更新一時休止します)
婚活カウンセリングの勉強ではなく、本来的な意味の「カウンセリング」の勉強です。当然婚活カウンセリングにも役に立ちます。
カウンセリングの基本的な考え方の一つに、カール・ロジャーズの「治療的人格変化の必要にして十分な条件」というものがあります。
この条件は、多くのカウンセリング理論が、カウンセリングを実施する際の「前提条件」としてしているようです。
「治療的人格変化の必要にして十分な条件」は以下の6つです。「6条件」を、諸富祥彦先生の「カール・ロジャーズ入門自分が自分になること」から、少し簡略化、補足して引用します。文責は当然宮﨑にあります。
1.二人(クライアントとカウンセラー)との間に心理的接触がある
2.クライエントは、不一致の状態、すなわち傷つきやすい不安な状態にいる
3.カウンセラーは、一致もしくは統合されている
4.カウンセラーは自分が「無条件の肯定的配慮を」をクライエントに対して持っていることを経験している
5.カウンセラーは、クライエントの内的基準枠を共感的に理解(共感的理解)していることを経験し、これをクライエントに伝えようとしている
6.クライエントには、カウンセラーが共感的理解と無条件の肯定を経験していることが、必要最低限は伝わっている
(「カール・ロジャーズ入門自分が自分になること」引用以上、以下は宮崎見解)
6つの条件のうち、カウンセラー側の態度もしくは状態についての3.4.5.を「中核3条件」ともいうようです。
3.の「一致もしくは統合されている」というのは2.の状態つまり「傷つきやすく不安定な状態」ではないことを前提に、5.の「クライエントの内的基準枠を共感的に理解」できる状態、つまり、自分の価値観やカウンセリング理論でクライエントを評価するといった態度ではなく、クライエントが、自分の感じ方で感じていることを理解=感じ取ることのできる状態、ということでもあるようです。
4.の「無条件の肯定的配慮」は、「あなたが、私の持っている条件に合致すれば受容しますが、そうでなければ受容しませんよ」という態度ではない、ということです。
これは大げさに言えばほぼ「人間界には自然には存在しない」心理的態度です。
カウンセラーは、カウンセリングにおいて、という条件付きですが、クライアントのお話を無条件で肯定的に聞きます。肯定して聞くのではありません。肯定も否定もしないという意味で「肯定的」ということです。「それは良いことだ」とか「良くないことだ」とかの評価はしません、という態度で聞きます、ということです。
ただし、これはクライアントのお話を「受容」します、ということであって、すべてを「是認」するのではありません。極端なたとえですが、「人を殺したい」とクライエントが語ったら「人を殺したいと思うことがあるのですね」とクライエントがそのように考えたことは「受容」しますが、「人を殺す」ということを「是認」はしません。
5.の「共感的に理解する」ことの内容については、上記の3.でご説明しました。
共感的理解については、カウンセラーが「共感的に理解した」ことを「クライエントに伝えようとしている」ことが重要な意味をもつようです。「クライエントに伝え」るためには、直接的には言葉で伝えることになります。
つまりクライエントは、カウンセラーの言葉によって、クライエント自身が感じていることをより一層、明確に理解する、という経験をするかもしれない、ということです。
そしてもし、クライエントが、「カウンセラーの言葉により、クライエント自身が感じていることをより一層、明確に理解する」という経験をしたならば、カウンセラーの「共感的理解」を通して、クライエントは「受容され」たこと、「自身の考えや希望」が「肯定的」に理解されたことを感じ、その体験が、クライエントが、クライアント自身の心理的な苦悩の原因となった考え方を整理し、それに基づいて行動を組み替えることによって「不一致の状態、すなわち傷つきやすい不安な状態にいる」自分を変えてゆく契機もしくは勇気を得ることになる、可能性があるということであろうと思います。
ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)は、まず体の動きの観察と言葉による確認から始めて、体の感覚の観察と言葉による確認、心の観察と言葉による確認へと進みます。
ここでは観察したこと=気づき、に対する「言葉による確認」が決定的な意味を持ちます。
「カウンセラーの言葉により、クライエント自身が感じていることをより一層、明確に理解する」ということは、カウンセラーの言葉によって、クライエント自身が「言葉よる確認」を行ったこと、それにより、考え方が整理される契機となり、それによって行動の変容につながることが期待される、とも言い換えられます。
あまりマインドフルネスに引き付けて理解することは抑制的であるべきですが、「言葉による確認」は自己のものであれ、他者によるものであれ重要な意味を持つとは言えるでしょう。
さらに瞑想との関係では、ロジャーズの6条件に付いて考えた後では、四無量心の理解に変化が生まれたように思います。
ただし誤解しないでください。
「ロジャーズの6条件」を、「四無量心」で理解しようとしているのではありません。
「ロジャーズの6条件」について考えてみると、「四無量心」への理解が少し変わってくる、ということです。
(まだ続きますが、更新一時休止します)
3.なぜ慈悲喜捨が大事なのでしょうか
なぜ慈悲喜捨が大事なのかを考えるときには、嫉妬を考えるとわかりやすいです。
結婚相談所なので、婚活での「嫉妬」を”わかりやくすく”想定してみましょう。
たとえば知り合いAさんが、誰もがうらやましがるような結婚、「玉の輿婚」をしたとします。
独身で婚活をしているBさんは口にこそ出さないものの、「なんであの人が玉の輿婚なのよ」と思い「私だっていい彼氏ゲットしてやる」と決意を新たにしました。
一方、こちらも独身で婚活中のCさんは「えーすごい、よかったね、おめでとう」と思い、そのままAさんに伝えたとします。
この場合、婚活で成功しそうな確率の高い方はどちらでしょうか?
慈悲喜捨の考え方から説明するとCさんです。
道徳論や処世術にかなっているから、という理由ではありません。
人間の心の働きから、Cさん、ということになるのです。
その理由は、Cさんは、Aさんの玉の輿婚を素直に「喜び」Aさんに伝えてます。このことは慈悲喜捨の「喜」と「捨」の行為です。
Cさんは、Aさんの「喜ばしい」ことは、他者のことであれ「喜」んで、その喜びをAさんに伝えました。この行動が「捨」、つまり他者に生じた「喜ばしいこと」も自分に生じた「喜ばしい」ことと同様に「喜ぶ」ことです。
他者に生じた「喜ばしいこと」ことを喜ぶことは、「喜ばしいこと」を肯定することであり、自分が「喜ばしいこと」を手にすることを肯定することになります。
Bさんは、Aさんの玉の輿婚に「なんであの人が玉の輿婚なのよ」と嫉妬してしまいました。
嫉妬とは自分が欲しいものを他者が手にいたときに起こる感情です。
そして嫉妬することは、ここが大事なところです、自分が欲しいものを、他者が手に入れたことをやっかむことによって「否定」し、「否定」することによって、自分が望むものを手に入れることをも「否定」してしまいます。
近代的な人間像は、自由な意思をもった独立した人間ですが、一方では人間は社会的な存在で、他者との関係を抜きにしては理解できません。
人間は、幸不幸について、どうも自分と他者を明確に区別することが苦手なようなのです(一部には例外の方もいます)。
自分の幸せを願いつつ、他者の不幸を願う、ということは意識の上ではできても、他者の不幸を願えば願うほど、自分が望む幸福から自分を遠ざける結果となってしまう、ということになります。
ということは、幸せになりたかったら自分の幸せを願い、同じように他者の幸せも願いなさい、つまり自他の区別を捨てる「捨」の心=認識方法を備えなさい、というのが慈悲の瞑想の教えるところであり、ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスの目指すところです。
先に挙げたアドラーさんは、人が適応的に生きるためには健全な「共同体意識」が必要だと説きました。他者に対して懐疑的、否定的、攻撃的になる「ライフスタイル」では自分が幸せになれない、ということです。
結婚相談所なので、婚活での「嫉妬」を”わかりやくすく”想定してみましょう。
たとえば知り合いAさんが、誰もがうらやましがるような結婚、「玉の輿婚」をしたとします。
独身で婚活をしているBさんは口にこそ出さないものの、「なんであの人が玉の輿婚なのよ」と思い「私だっていい彼氏ゲットしてやる」と決意を新たにしました。
一方、こちらも独身で婚活中のCさんは「えーすごい、よかったね、おめでとう」と思い、そのままAさんに伝えたとします。
この場合、婚活で成功しそうな確率の高い方はどちらでしょうか?
慈悲喜捨の考え方から説明するとCさんです。
道徳論や処世術にかなっているから、という理由ではありません。
人間の心の働きから、Cさん、ということになるのです。
その理由は、Cさんは、Aさんの玉の輿婚を素直に「喜び」Aさんに伝えてます。このことは慈悲喜捨の「喜」と「捨」の行為です。
Cさんは、Aさんの「喜ばしい」ことは、他者のことであれ「喜」んで、その喜びをAさんに伝えました。この行動が「捨」、つまり他者に生じた「喜ばしいこと」も自分に生じた「喜ばしい」ことと同様に「喜ぶ」ことです。
他者に生じた「喜ばしいこと」ことを喜ぶことは、「喜ばしいこと」を肯定することであり、自分が「喜ばしいこと」を手にすることを肯定することになります。
Bさんは、Aさんの玉の輿婚に「なんであの人が玉の輿婚なのよ」と嫉妬してしまいました。
嫉妬とは自分が欲しいものを他者が手にいたときに起こる感情です。
そして嫉妬することは、ここが大事なところです、自分が欲しいものを、他者が手に入れたことをやっかむことによって「否定」し、「否定」することによって、自分が望むものを手に入れることをも「否定」してしまいます。
近代的な人間像は、自由な意思をもった独立した人間ですが、一方では人間は社会的な存在で、他者との関係を抜きにしては理解できません。
人間は、幸不幸について、どうも自分と他者を明確に区別することが苦手なようなのです(一部には例外の方もいます)。
自分の幸せを願いつつ、他者の不幸を願う、ということは意識の上ではできても、他者の不幸を願えば願うほど、自分が望む幸福から自分を遠ざける結果となってしまう、ということになります。
ということは、幸せになりたかったら自分の幸せを願い、同じように他者の幸せも願いなさい、つまり自他の区別を捨てる「捨」の心=認識方法を備えなさい、というのが慈悲の瞑想の教えるところであり、ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスの目指すところです。
先に挙げたアドラーさんは、人が適応的に生きるためには健全な「共同体意識」が必要だと説きました。他者に対して懐疑的、否定的、攻撃的になる「ライフスタイル」では自分が幸せになれない、ということです。
4.ベックさんの「否定的認知の3徴」へ働きかけることができる
アーロン・T・ベックさんは、「自分に対しての否定的な考え」「周囲の人との関係についての否定的な考え」「将来についての否定的な考え」を、うつ病の否定的認知の3徴といっています。
うつ病ではなくとも、うつ状態は、病気のときや病後には表れやすいようです。
すでに書きましたが、私自身、インフルエンザからの回復後、ジュディス・ベックの「認知行動療法実践ガイド」を読んでいた時に、「なんだか自分の今の状態のことが書いてあるようだ」と感じました。
要するに「うつ状態」であったようです。
否定的認知は、あくまでも、自分が心の中にいだいている「認知」です。
ベックさんの認知モデルでは、苦痛や、幸不幸の感情は、あなたの心の認知、心の反応から生まれるとしています。
否定的認知は、自分が心の中にいだいている「認知」なので自分で改善することが出来る性質のものです。
慈悲の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想との併用により「自分に対しての否定的な考え」「周囲の人との関係についての否定的な考え」に対して働きかけ、「将来についての否定的な考え」を改善することもできると考えています。
うつ病ではなくとも、うつ状態は、病気のときや病後には表れやすいようです。
すでに書きましたが、私自身、インフルエンザからの回復後、ジュディス・ベックの「認知行動療法実践ガイド」を読んでいた時に、「なんだか自分の今の状態のことが書いてあるようだ」と感じました。
要するに「うつ状態」であったようです。
否定的認知は、あくまでも、自分が心の中にいだいている「認知」です。
ベックさんの認知モデルでは、苦痛や、幸不幸の感情は、あなたの心の認知、心の反応から生まれるとしています。
否定的認知は、自分が心の中にいだいている「認知」なので自分で改善することが出来る性質のものです。
慈悲の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想との併用により「自分に対しての否定的な考え」「周囲の人との関係についての否定的な考え」に対して働きかけ、「将来についての否定的な考え」を改善することもできると考えています。
5.マインドフルネスと認知行動療法
私はヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスと認知行動療法は極めて類似性があると考えています。
アーロン・T・ベックさんの認知行動療法の、非機能的な自動思考、中核信念と媒介信念の特定と修正は、ヴィパッサナー瞑想による四聖諦の認識と酷似しています。
四聖諦とは、
苦聖諦(苦)とはこのようなものであり、知り尽くすべきであり、知り尽くした。
苦集聖諦(苦の原因)とはこのようであり、打ち捨てるべきであり、打ち捨てた。
苦滅聖諦(苦の滅尽)はこのようであり、目の当たりにすべきであり、目の当たりにした。
苦滅道聖諦(苦を滅尽に至る道)はこのようであり、実践すべきであり、実践した。
以上の智が生じたときに、釈迦は解脱したというものです。
苦聖諦は、苦の生じるプロセスを示した縁起を知り尽くすこととされているようです。
しかしながら、生まれ変わるから苦が生まれる、だから、生まれ変わること(輪廻)からの解脱により苦からの解放される、というのはサンガ(僧院)に属する方の「思想」としては、もっともなものであっても、俗世に生きる現代人の「苦」の解決にはあまり寄与しないように思います。私が仏教への信仰をためらう理由の一つです。
四聖諦は、ベックさんの認知モデルでも説明できるように思っています。
苦聖諦は、気分の低下とそれによる身体的な不調(苦)を知った。
苦集聖諦は、非機能的な中核信念、媒介信念および自動思考が気分の低下とそれによる身体的な不調を引き起こしている、非機能的な中核信念、媒介信念および自動思考は打ち捨てる(修正する)べきである。
苦滅聖諦は、非機能的な中核信念、媒介信念および自動思考を打ち捨てた(修正した)ことによって気分の低下と身体的な不調が改善することを体験した(目の当たりにした)。
苦滅道聖諦は、上記の一連の行為を実践することで、気分の低下とそれにより引き起こされる身体的な不調が改善された、これを実践すべきである。
と言い換えられます。
四聖諦とベックさんの認知モデルの方法論は符合しています。
私自身、あるとき胸の息苦しさを感じ、その息苦しさの原因が、自分が心の中での「将来の予想に対する否定的なつぶやき」による気分の低下によってもたらされたことに思い当たったとき、否定的なつぶやきを「そうと決まったわけではない」と修正したところ、気分の低下がなくなった、という体験をしたことがあります。
ヴィパッサナー瞑想を15年もやっていますので、これが「四聖諦」かと思いました。
この体験以降、気分を低下させる「否定的な感じ方やつぶやき」を意識的に検出して、排除するようになり、それに伴って気分の低下はなくなっています。
後にベックさんの認知行動療法を学んで、私が四聖諦と理解したものが、ベックさんの認知行動療法による非機能的な自動思考の修正と、それによる気分の改善で説明できることを知り驚きました。
私が行っていた「否定的な感じ方やつぶやき」を「否定的な感じ方やつぶやき」を意識的に検出して、排除する」ことは、ベックさんの「非機能的な自動思考の特定と修正」を行っていたことになります。
それゆえ、ヴィパッサナー瞑想は、釈迦の創始した認知療法、心理療法ととらえてもよいものだと感じています。
釈迦は苦しみからの解放を求めて修行生活に入ったので、そのようにとらえてもよいように思います。
アーロン・T・ベックさんの認知行動療法の、非機能的な自動思考、中核信念と媒介信念の特定と修正は、ヴィパッサナー瞑想による四聖諦の認識と酷似しています。
四聖諦とは、
苦聖諦(苦)とはこのようなものであり、知り尽くすべきであり、知り尽くした。
苦集聖諦(苦の原因)とはこのようであり、打ち捨てるべきであり、打ち捨てた。
苦滅聖諦(苦の滅尽)はこのようであり、目の当たりにすべきであり、目の当たりにした。
苦滅道聖諦(苦を滅尽に至る道)はこのようであり、実践すべきであり、実践した。
以上の智が生じたときに、釈迦は解脱したというものです。
苦聖諦は、苦の生じるプロセスを示した縁起を知り尽くすこととされているようです。
しかしながら、生まれ変わるから苦が生まれる、だから、生まれ変わること(輪廻)からの解脱により苦からの解放される、というのはサンガ(僧院)に属する方の「思想」としては、もっともなものであっても、俗世に生きる現代人の「苦」の解決にはあまり寄与しないように思います。私が仏教への信仰をためらう理由の一つです。
四聖諦は、ベックさんの認知モデルでも説明できるように思っています。
苦聖諦は、気分の低下とそれによる身体的な不調(苦)を知った。
苦集聖諦は、非機能的な中核信念、媒介信念および自動思考が気分の低下とそれによる身体的な不調を引き起こしている、非機能的な中核信念、媒介信念および自動思考は打ち捨てる(修正する)べきである。
苦滅聖諦は、非機能的な中核信念、媒介信念および自動思考を打ち捨てた(修正した)ことによって気分の低下と身体的な不調が改善することを体験した(目の当たりにした)。
苦滅道聖諦は、上記の一連の行為を実践することで、気分の低下とそれにより引き起こされる身体的な不調が改善された、これを実践すべきである。
と言い換えられます。
四聖諦とベックさんの認知モデルの方法論は符合しています。
私自身、あるとき胸の息苦しさを感じ、その息苦しさの原因が、自分が心の中での「将来の予想に対する否定的なつぶやき」による気分の低下によってもたらされたことに思い当たったとき、否定的なつぶやきを「そうと決まったわけではない」と修正したところ、気分の低下がなくなった、という体験をしたことがあります。
ヴィパッサナー瞑想を15年もやっていますので、これが「四聖諦」かと思いました。
この体験以降、気分を低下させる「否定的な感じ方やつぶやき」を意識的に検出して、排除するようになり、それに伴って気分の低下はなくなっています。
後にベックさんの認知行動療法を学んで、私が四聖諦と理解したものが、ベックさんの認知行動療法による非機能的な自動思考の修正と、それによる気分の改善で説明できることを知り驚きました。
私が行っていた「否定的な感じ方やつぶやき」を「否定的な感じ方やつぶやき」を意識的に検出して、排除する」ことは、ベックさんの「非機能的な自動思考の特定と修正」を行っていたことになります。
それゆえ、ヴィパッサナー瞑想は、釈迦の創始した認知療法、心理療法ととらえてもよいものだと感じています。
釈迦は苦しみからの解放を求めて修行生活に入ったので、そのようにとらえてもよいように思います。
6.マインドフルネス認知療法
ベックさんの認知モデルとヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)の認知論は極めて親近性があります。
ベックさんの認知行動療法でもマインドフルネスを取り入れていますが、あくまでも一技法としてです。
それに対してマインドフルネス認知療法は、「認知療法の原理と実践をマインドルネスの枠組みの中に統合」しています(下掲書)。
「Mindfulness-Based Cognitive Therapy:マインドフルネス認知療法」の創始者のひとりであるJohn Teasdaleは、仏教の認識論とベックさんの認知モデルの類似性について以下のように言っています。
マインドフルネスとの出会いとなったアメリカ生まれの仏教僧Ajahn Sumedhoの講演を聞いたときのことです。
「講演中にJohnは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。」
「また仏教のマインドフルネスの中核の思想が、思考として(つまり、「事実」や「私」としてではなく、精神的事象として)思考と関係してゆくことの習慣を含むことも明白であった。人はこうすることで、自分の行動をコントロールしたり、不幸な心の状態を作り上げる役に立たない思考パターンの影響から自身を解放できるのだ。」
(マインドフルネス認知療法 原著第2版 Z・シーゲル、M・ウィリアムズ、J・ティーズデール 越川房子訳 北大路書房)
ベックさんの認知行動療法でもマインドフルネスを取り入れていますが、あくまでも一技法としてです。
それに対してマインドフルネス認知療法は、「認知療法の原理と実践をマインドルネスの枠組みの中に統合」しています(下掲書)。
「Mindfulness-Based Cognitive Therapy:マインドフルネス認知療法」の創始者のひとりであるJohn Teasdaleは、仏教の認識論とベックさんの認知モデルの類似性について以下のように言っています。
マインドフルネスとの出会いとなったアメリカ生まれの仏教僧Ajahn Sumedhoの講演を聞いたときのことです。
「講演中にJohnは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。」
「また仏教のマインドフルネスの中核の思想が、思考として(つまり、「事実」や「私」としてではなく、精神的事象として)思考と関係してゆくことの習慣を含むことも明白であった。人はこうすることで、自分の行動をコントロールしたり、不幸な心の状態を作り上げる役に立たない思考パターンの影響から自身を解放できるのだ。」
(マインドフルネス認知療法 原著第2版 Z・シーゲル、M・ウィリアムズ、J・ティーズデール 越川房子訳 北大路書房)
Ⅶ.最後に
ブログの内容に質問等があればメールよりお問い合わせください。メールで回答いたします。
より詳しくお知りになりたいようであれば、カウンセリングをご予約ください(無料)。ご説明いたします。
慈悲の瞑想はそれ自体でも効果がありますが、最も効果を発揮するのは、ヴィパッサナー瞑想と並行して行った時です。
ヴィパッサナー瞑想で「心随観」の段階に至り、自分を悩ませているものの原因(ベックさんのいう「非機能的な」「中核信念」「媒介信念」)を観る(認識する)ことができて、それを意識的に修正するための瞑想文を作り、瞑想すると効果的です。この段階まで行けば、釈迦が解脱に至った方法として説いた「四聖諦」、もしくは「四聖諦」に近いものと言えるように思います。
慈悲の瞑想の内容や効果を説明するには、仏教の認識論に言及せざるを得ませんので、多少宗教色を感じた方もいらっしゃるかもしれません。
ヴィパッサナー瞑想も慈悲の瞑想も、東南アジアに伝わり、今も行われているテーラワーダ仏教の修行方法です。釈迦直伝の修行方法と称しています。
テーラワーダ仏教では、ヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想は、解脱を目指して行われるものですが、出家していない方が解脱を目指す「瞑想」を行うことは現実的ではありません。
自分の人生を、よりストレスの無いものにする、より良いものにすることを目指して行う方が現実的です。
四聖諦とベックの認知モデルについてご説明したように、ヴィパッサナー瞑想を続けることによる認知の深まりは、認知行動療法と同様の効果をもたらします。
QOLを上げることが出来ます。
加えて、私は仏教徒ではありませんので、仏教の方法論(信仰)に縛られる必要がありません。
テーラワーダは宗教ではない、という言われる方もいらっしゃいます。
効果が証明できないものを信じることが宗教であるならば、ヴィパッサナー瞑想は、しっかりとやれば釈迦と同じ解脱に至り、効果を証明(自ら行うことのよって)できるので、宗教ではない、というのがその理由です。十分に説得力があります。
また、初期仏教は2500年以降のインド北部の社会文化状況を反映した「思想」という部分もあります。
現代人にそれらのすべてが合致するのかと言われると、私は疑問に思います。
当然、仏教を信仰している方や、研究されてる方は、その「思想」を所与のものとされています。
そうであれば、自らが15年以上続けてきた経験をもとに、カウンセラーとして、
・幸せになるためのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・願いごとをかなえるためのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・悩み苦しみを乗り越えるためのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・能力開発としてのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・心理療法としてのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
として活用すればよいのではないかと考えています。
私は、仏教も含めて宗教を信仰しておりませんので、勧誘、布教の意図は全くございませんので、ご安心ください。
また、マインドフルネスは「禅の考え方による」と説明されることがありますが、このブログでのマインドフルネスは「ヴィパッサナー瞑想および慈悲の瞑想」を意味しています。
仏教の認識論、瞑想方法とその効果に依拠したエクササイズ、もしくはそれらを活用したエクササイズと考えるならば、禅であれヴィパッサナー瞑想であれ根本的な違いは無いように思います。
また、仏教の認識論、瞑想方法については、私自身が瞑想の手引書として参照している「アルボムッレ・スマナサーラ「大念処経」サンガ刊」、四聖諦の訳文は「馬場紀寿「初期仏教 ブッダの思想をたどる」 岩波新書」に依拠しています。
より詳しくお知りになりたいようであれば、カウンセリングをご予約ください(無料)。ご説明いたします。
慈悲の瞑想はそれ自体でも効果がありますが、最も効果を発揮するのは、ヴィパッサナー瞑想と並行して行った時です。
ヴィパッサナー瞑想で「心随観」の段階に至り、自分を悩ませているものの原因(ベックさんのいう「非機能的な」「中核信念」「媒介信念」)を観る(認識する)ことができて、それを意識的に修正するための瞑想文を作り、瞑想すると効果的です。この段階まで行けば、釈迦が解脱に至った方法として説いた「四聖諦」、もしくは「四聖諦」に近いものと言えるように思います。
慈悲の瞑想の内容や効果を説明するには、仏教の認識論に言及せざるを得ませんので、多少宗教色を感じた方もいらっしゃるかもしれません。
ヴィパッサナー瞑想も慈悲の瞑想も、東南アジアに伝わり、今も行われているテーラワーダ仏教の修行方法です。釈迦直伝の修行方法と称しています。
テーラワーダ仏教では、ヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想は、解脱を目指して行われるものですが、出家していない方が解脱を目指す「瞑想」を行うことは現実的ではありません。
自分の人生を、よりストレスの無いものにする、より良いものにすることを目指して行う方が現実的です。
四聖諦とベックの認知モデルについてご説明したように、ヴィパッサナー瞑想を続けることによる認知の深まりは、認知行動療法と同様の効果をもたらします。
QOLを上げることが出来ます。
加えて、私は仏教徒ではありませんので、仏教の方法論(信仰)に縛られる必要がありません。
テーラワーダは宗教ではない、という言われる方もいらっしゃいます。
効果が証明できないものを信じることが宗教であるならば、ヴィパッサナー瞑想は、しっかりとやれば釈迦と同じ解脱に至り、効果を証明(自ら行うことのよって)できるので、宗教ではない、というのがその理由です。十分に説得力があります。
また、初期仏教は2500年以降のインド北部の社会文化状況を反映した「思想」という部分もあります。
現代人にそれらのすべてが合致するのかと言われると、私は疑問に思います。
当然、仏教を信仰している方や、研究されてる方は、その「思想」を所与のものとされています。
そうであれば、自らが15年以上続けてきた経験をもとに、カウンセラーとして、
・幸せになるためのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・願いごとをかなえるためのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・悩み苦しみを乗り越えるためのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・能力開発としてのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・心理療法としてのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
として活用すればよいのではないかと考えています。
私は、仏教も含めて宗教を信仰しておりませんので、勧誘、布教の意図は全くございませんので、ご安心ください。
また、マインドフルネスは「禅の考え方による」と説明されることがありますが、このブログでのマインドフルネスは「ヴィパッサナー瞑想および慈悲の瞑想」を意味しています。
仏教の認識論、瞑想方法とその効果に依拠したエクササイズ、もしくはそれらを活用したエクササイズと考えるならば、禅であれヴィパッサナー瞑想であれ根本的な違いは無いように思います。
また、仏教の認識論、瞑想方法については、私自身が瞑想の手引書として参照している「アルボムッレ・スマナサーラ「大念処経」サンガ刊」、四聖諦の訳文は「馬場紀寿「初期仏教 ブッダの思想をたどる」 岩波新書」に依拠しています。