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「人当たりをよくする」

サマリー

「人当たり」と検索すると「人と会った際などに、相手に与える感じや印象」(goo辞典)と説明されています。
「人当たりをよくする」ということは、「相手に与える感じや印象をよくする」ということになります。

このブログがお役に立ちそうな方

知らない人と会うのが苦手な方、異性とのお付き合い経験の少ない方、私は理解されていないと感じている方などです。

「人当たりをよくする」と、婚活でどのような良いことがあるのでしょうか?

良いことはたくさんあります。婚活とは自分の理想のとの「出会い」を求めることです。
ですから、理想の方と出会った時に「人当たりが良」ければ、お相手に良い印象を与えることができます。

また、自分自身も「楽」になります。

「人当たりをよくする」=「自分を抑制する」ということではありません。

注意していただきたいのは「人当たりをよくする」ために、「自分を抑える」のではない、ということです。
「自分が自分のままで」いて、「お相手に良い印象を与える」ようになる、ということです。

それでは「人当たりがよくなる」とはどういうことでしょうか?

かなりわかりすくいうと、周囲の人や、相手を必要以上に警戒しないようにする、ということです。

初めて会う人は、自分に対してどのような反応をされる方なのかわかりません。
どのような反応をされる方なのかわからない場合、過去の経験から形成された、「人とはこういうもの」という自分の「信念」に基づいて、あれこれと考えてしまいす。

「人とはこういうもの」という自分の「信念」が、「他者は自分が欲しいものを与えてくれる」というものであった場合、人に会うのは苦になりません。
逆に「他者は自分が欲しいものを与えてはくれない。どちらかと言えば自分が望まないものを与える」というものであった場合には、人に会うメリットは見当たらず、人会うことによってデメリットが予想されますから、人に会うのが苦になります。

そして「他者は自分が欲しいものを与えてはくれない。どちらかと言えば自分が望まないものを与える」という信念を持っているけれども、人に会わなければならない場合には、「自分が望まないものを与えられて、自分が傷つかないように、注意しよう」となります。つまり自分が傷つかないよう警戒しながら人に会うことになります。

「自分が傷つかないよう警戒しながら人に会う」ので、あなたがお相手に与える印象は、打ち解けたものにならず、お堅いイメージになってしまいます。つまり「人当たり」が良くない、ということになります。

また「自分が傷つかないよう警戒しながら人に会う」ことは、エネルギーを使いますから、疲れます。会うだけでエネルギーをつかってしまうので、あなたのお相手やお相手の話に注意を向けることが出来にくくなります。このことも「人当たり」が良くない、という結果を生んでしまいます。

これから、アルフレッド・アドラーさんの「ライフスタイル」や「共同体意識」、エリック・バーンさんの「交流分析」、アーロン・T・ベックさんの「認知モデル」などの考え方も活用してご説明いたします。

「人当たりをよくする方法」

まず、自分を徹底的に肯定することから始めます。
自分を「抑える」のではなく、自分を徹底的に肯定して、次のステップで自分と同じように周囲の方も、初めてお会いする方も肯定します。

ここではご自身だけで取り組み可能なマインドフルネスの「慈悲の瞑想」をご紹介します。

もともと仏教(テーラワーダ)の瞑想ですので少し宗教っぽいですが「仏教の認知論を活用したセラピー、能力開発」と考えてください。

仏教の認知論は、認知行動療法の認知モデルと酷似しています。

どのように似ているのか簡単に言ってしまうと、両者とも「もしあなたが、あなたの周囲(外界)との関係に多少なりとも困難を抱えているのであれば、それはあなたの外界のとらえ方=認知によるものです。あなたを取り巻く環境をあなたの一存で変えることはできませんが、あなたの外界のとらえ方=認知は変えることが出来ます。」という考え方です。

それゆえ、認知行動療法には、マインドフルネスが取り入れられていますし、マインドフルネスをベースにした認知療法も行われています。

「Ⅵ.慈悲の瞑想は、人間心理に基づいた合理的な方法」の項目で詳しく説明しています。

Ⅰ.このブログがお役に立ちそうな方

そもそもこの世の中には、自分の心を押し殺したりしなければならないことや、他者に素直に接することが出来なくなるような出来事も多々あります。

ですから、もし仮にあなたが、人当たりが良くない人、であったとしてもそれはあなたの責任ではありません。

世の中に理不尽なことはたくさんあります。
とはいえ、あなたに不都合や不利益があるのであれば、それを改善できるのはあなたしかいません。

理不尽な出来事を乗り越えて、人当たりを良くして、幸せをつかんでください。

1.知らない人と会うのが苦手な方

知らない人と会うのが苦手な方がいる一方で、面識のない人と会うのが大好き、という方もいらっしゃいます。
面識のない人と会うのが大好きな方は、一般的に「人当たりがよい」人と言えるでしょう。本人もそのことを理解していて相手に対面しているように思います。

面識のない人に会うのが大好きな方は、人に会うことで自分に「メリット」がもたらされるから、人に会うことが大好きなのでしょう。
たとえばビジネスチャンスが広がる、新たな視野が広がる、人と会うと元気がもらえるなどということが考えられます。

これらはすべて自分にもたらされる「メリット」です。

ちなみに、15年ほど取り組んでいるヴィパッサナー瞑想では、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を「欲」ととらえます。
普通皆さんがとらえる「欲」よりはかなり広いとらえ方です。『自分の心に、気持ちよい変化(快)が起こることを求めて行動する』と言い換えると理解しやすいと思います。

人に会うことで実利的なメリットもあり、自分が相手に良い印象を与えるよう振る舞い、相手に好意をもってもらえれば、人に会うことは「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」をもたらしてくれます。

人と会うのが大好きな人は、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を求めるがゆえに、積極的に人に会う、と考えられます。

一方、知らない人と会うのが苦手な方は、これらの「メリット=心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」は感じず、むしろ人と会うことに「デメリット」を感じているのではないでしょうか。

「デメリット」とは、たとえば、自分に自信がない、愛想を振りまくのが苦手、会話が弾まない・・・お相手から好意をもたれないのではないかという心配、ということになります。
自分にとって心地よい具体的な「メリット=心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」が得られなくて、デメリットばかり感じられるのですから、知らない人に会うことには抵抗が生まれます。

「人当たりを良くする」ことで、まずは自分の側からお相手に与える印象を良くして、それによって、あなたが「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」をお相手から得られるようになれば、人に会うのが苦になりません。

仕事上では、自分の「役割行動」つまり、上司や同僚、顧客から自分に期待されている役割を取る行動をすればよいので、上記のデメリットはあまり意識されません。

2.異性とのお付き合い経験の少ない方

異性とのお付き合い経験の少ない方は、異性とのお付き合いによる自分の「メリット=心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を感じてこなかった、またはそれほど重視してこなかった方、とも言えます。

それゆえ、婚活を始めてみると、人によっては、お相手と会うことによってどのようなメリットがあるのかイメージがわかず、どうお相手と向き合ってよいか「わからない」という感情がクローズアップされてしまうかもしれません。

結婚への希望が高まれば高まるほど、婚活を大事に考えて慎重になってしまい「どう対応したらよいのかわからない」「どうしよう」という気持ちがクローズアップされてしまい、その結果、人と会うことに抵抗感を感じてくる、ということになってしまう可能性もあります。

3.私は理解されていないと感じている方

世の中は理不尽なことが多いので、多かれ少なかれ、このような感覚は誰しも抱いているように思います。

アルフレッド・アドラーさんは、おおむね10歳くらいまでに、人生における基本的な態度「ライフスタイル」が形成されると言っています。
10歳くらいの子供が考えることですから、合理的機能的でないことも十分にあり得ますが、それでも人は、人は一生その基本的な態度「ライフスタイル」を使い続けると、アドラーさんは言っています。

幼少期に、両親から「理不尽な対応をされ」、「人(=子供にとって親は世間全般の人の代表格)は自分に対して理不尽な対応をするから、いつも気を抜いてはいけない、警戒しなければいけない」という「ライフスタイル」を形成した方は、社会に出ても「理不尽な対応をされている」と感じ「自分が理解されない、(良い)評価が得られない」という感覚(不満)を抱き、いつも自分が公正に扱われるように「要求」する行動とるようになるかもしれません。

「自分が理解されない、(良い)評価が得られない」という感覚(不満)を抱き、いつも自分が公正に扱われるように「要求」する行動とっているとしたら、お相手は負担に感じるでしょうから、「人当たりが良い」人とは認めてもらえない可能性が高いでしょう。

「自分が周囲や相手から、理解されない、好意をもたれない」という(その多くは明確ではない)感覚がある場合には、「ライフスタイル」に起因しているのかもしれません。

ここでご注意いただきたいことは、ライフスタイルの形成について、あなたに責任があるわけではないのですが、もしあなたの「ライフスタイル」を使い続けることにデメリットがあるなら、そのデメリットを受け続けるのはあなた、ということになります。

さらに、あたなたの「ライフスタイル」を変えられるのは、あなたしかいません。この点は心に刻まなければなりません。

心が休まらない、追立てられている感じがする、不満足感が強いという感覚があるのであれば、自分のライフスタイル、基本的な人生態度をみなおしてみる価値はあります。

Ⅱ.「人当たりをよくする」と、婚活でどのような良いことがあるのでしょうか?

1.印象のよい「プロフィール写真」になる

「人当たりをよくする」と、「相手に与える感じや印象をよくする」という効果があります。

プロフィール写真で「相手に与える感じや印象をよくする」ことができます。
写真館で、口角をあげてください、イーって言ってみてください、と言われて口元は微笑んでいても、「目が笑っていない」写真が出来上がることがあります。

それは「口角をあげる」「テクニック」だからです。

カメラマンはあなたのベストな表情を引き出そうとしますが、「テクニック」には限界があります。
カメラマンの「テクニック」であなた自身は変わらないからです。

あなた自身が「人当たりのよい」人になるしかありません。
そして「人当たりがよい人になる」と自分も楽になります。あれこれ考えずに不満足感を抱くことが少なくなるからです。

プロフィール写真で「相手に与える印象が良」くなれば、多くの方に関心を持ってもらえます。

多くの方に関心を持ってもらえれば、お見合いの申受けの増加につながります。
お見合いの申受けの増加は、出会いの幅を広げお見合い数の増加につながります。
お見合い数の増加は、理想の方のとの出会いの可能性を高めます。

「成婚主義」の立場からは「お見合いなくして成婚なし」なのです。

2.お見合いに対して気が楽になる

「お見合いが楽になる」とは、お見合いに対する不安が少なくなる、抵抗が少なくなる、ということです。
不安は少なからず、お見合いをためらわせる方向に向かいます。

成婚するためにはお見合いをたくさんする必要があります。

「人当たりを良くする」とは、「自分が楽になる」ということでもあります。

自分の気持ちを抑えて「愛想よくする」ことでも「ニコニコ」し続けることでもありません。

サマリーで『自分を徹底的に肯定することから始めます。自分を「抑える」のではなく、自分を徹底的に肯定して、次のステップで自分と同じように周囲の方も、初めてお会いする方も肯定します。』とすでにお話しました。

自分を徹底的に肯定することから始めるので、まずは「自分が楽に」なります。

3.お見合いでお相手に与える印象が良くなる

「人当たりを良くする」には、自分を肯定して、自分以外の人を肯定します。
自分を肯定するので、自分が「嫌われたらどうしよう」とか「嫌な人だとおもわれたらどうしよう」という不安は減少します。

他者も肯定するので、お相手への自然な敬意が生まれます。あなたがお相手に自然な敬意を持っていて、お相手を尊重しているならば、お相手はあなたに良い印象を持ちます。

「不安」があると、その場に集中できず「不安を感じている自分」に注意が向かってしまいます。「不安を感じている自分」に注意が向かうと、「お相手」へ注意を向けれることが出来ず、ちぐはぐな受け答えをしたり、会話が気持ちよく進まない、ということになります。

4.交際がうまくゆくようになる

自分を肯定して他者も肯定するのですから、自分の気持ちに正直になりますし、相手の気持ちも受け止められるようになります。

自分の気持ちに正直になることで、一緒に楽しむことや喜ぶことが出来ます。
お相手への自分の感情をしっかりと確認することができます。より交際が深くなれば、不快に感じたこともキチンとお相手に伝えられるでしょう。
感情のやり取りができるようになると、お相手とのきずなは深まります。

Ⅲ.「人当たりをよくする」=「自分を抑制する」ということではありません。

1.「自分を抑える」ことではありません

愛想のよい人が「自分のメリット」を求めている、それならば「自分のメリットを求めない」、「自分の欲求を抑えればよい」のでしょうか。

「自分の欲求を抑えるのも」あまり良い結果を生みません。

なぜなら欲求を抑えたからといって、欲求がなくなるわけではないからです。
なくならないのですから、押さえ続けたものは、常に出口を求めるでしょう。

出口ない欲求=エネルギーはやがて、あなたに攻撃の矛先を向けるでしょう。

あなたの中にたまった出口のないエネルギーが、自分自身の攻撃に向かうと、あなたは「落ち込み」ます。

「うまくゆかないから」落ち込むのではなく、出口を見つけられないエネルギーが「うまくいかない、私はダメな人」と「自分を攻撃する」から落ち込むのです。

うまくゆかないのは「自分に原因がある」のではなく「周囲の人に原因がある」と考えれば、不満を抱き(不満は怒りです)、周囲を攻撃(怒りをぶつける)するでしょう。
周囲を攻撃したからといって、周囲の人はあなたの期待通りに振舞う義務はないので、結果としてさらに不満、つまりは怒りがつのります。

解決策としては、欲求は欲求として「認めてあげる」ことです。

「認めてあげる」と欲求はおとなしくなります。

2.愛想よくすること、でもありません

愛想は悪いより、良いほうが絶対に良いですが、愛想がよければ「お相手の良い印象を与えられる」のか、というと少し違うように思います。

人間は、初対面の人との面談は、相手がどのようなひとなのかと少し警戒しますから、最初に、私は「あなたの味方ですよ」という態度を示してして好意を得ようとします。
これは自然なことです。

とはいえ、あまり愛想がよすぎると「この人はいい人だ」という思いよりも「何か下心があるのではないか」ともとられかねません。
そう考えると過度に「愛想がよい」こともよい印象を与えません。

「知らない人と会うのが苦手な方」のところでもお話したように、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を「欲」と考えると「愛想がよい」人には、自分のメリットを求める期待があり、相手に良い印象を与えるよう振る舞い、相手にも好意をもってもらえれば、それは「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」=「メリット」を期待している人ということになります。

この人を「だまそう」とかいう気持ちはないにしても、「愛想よくしている人」は「自分のメリット」を求めている、と言えます。

不自然に「愛想がよい」人に、「何か下心があるのではないか」と感じてもそれは誤りではないことになります。

「人当たりを良くする」ためには「愛想よくすればよい」というわけではない理由です。

Ⅳ.それでは「人当たりがよくなる」とはどういうことでしょうか?

1.答え

自分と周囲の人を完全にパリティ(同等、等価)ととらえ、それを生き方の基礎とすることです。

言い換えると、自分を肯定して自分を大事にする感覚を養い、自分を大事にする感覚を他者にも拡大して、他者を肯定して尊重することです。

自分を肯定するとは、自分の欲求を肯定することです。自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持つことです。

自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持ち、うまくゆかなくても自分を責めず、良いことが合ったら素直に喜ぶ、そして他者も、そのような心の在り方であることを認め、その様であってほしいと望むことです。

自分の心の中にある、自分と他者に対する人間観は、言葉や行動となって現れます。

2.交流分析の「人生態度」の考え方で説明すると

交流分析では、4つの「人生態度」を想定しています。

自分についての「肯定」「否定」、他者についての「肯定」「否定」という認識を組み合わせると、4つの「人生態度」が出来上がります。

自己肯定×他者肯定 
私もあなたもOK 自分も他者も大切にすることができて、自分をありのままに受容できます。他の者とともに楽しんだり喜んだりすることが出来ます。

自己肯定×他者否定
私はOK、あなたはNOT OK 他者より自分が勝っていると感じています。他者から苦労を強いられ犠牲になっていると感じち。心が落ち着かず攻撃的になることもあります。

自己否定×他者肯定
私はNOT OK、あなたはOK 他者より自分が劣っているという感じが常に付きまとっています。心配や後悔が多く、居場所がない感覚、時間に追われているような感覚にとらわれがちになります。

自己否定×他者否定
わたしもあなたもOK 他者に対して常に疎外感を感じています。劣等感、無気力、恐怖、絶望感を強く感じます。深く落ち込むことがあります。

つまり「自己肯定」×「他者肯定」という人生態度を取ればよいのです。

3.とはいえ人生態度を根本から変えるのはそんなに簡単ではありません

もしあなたの人生態度が「自己肯定」×「他者肯定」ではなかった場合、人生態度を変えることは、そんなに簡単ではありません。

今まで疑問に思うことなく継続してきたものを変えることだからです。

人生態度を変えるということは、礼儀作法を身に付けることや、処世術を身に付けることとは根本的に異なります。

アルフレッド・アドラーさんは、10歳くらいまでにライフスタイルを作り上げ、それを一生使い続けると言ました。
多くの人が自分が幼少期に作り上げた「ライフスタイル」を(もしかしたらあまり人生に適応的ではないかもしれないのに)顧みることなく使っているのです。

認知療法を作り上げたアーロン・T・ベックさんの認知モデルでは、幼少期とそれに続く時期に、自分自身と他者と世界についての認知である「中核信念」が形作られ、「中核信念」が非機能的なものであった場合、「思い込み」のようなものである「媒介信念」を介して、ネガティブな思考である「自動思考」を生み出し、ネガティブな自動思考が気分や行動に影響を及ぼすと考えました。「中核信念」は、通常は意識に上ってきませんし、生活が順調である場合には、ネガティブな自動思考も生み出しませんから、簡単には認知できません。

翻って言えば、婚活に疲れている、うまくいかなくて落ち込んでいる、ネガティブな考えにとらわれているときには、アドラーさんの言う「ライフスタイル」、ベックさんの言う「中核信念」を検討してみる良い機会だと言えます。

これらを変えることは簡単ではないとはいえ、不可能なことではありません。

Ⅴ.人当たりを良くする方法

「ライフスタイル」「人生態度」「中核信念」を変えるのは簡単ではないのですが、簡単ではないからこそ変えることが出来れば得られるものは大きいといえます。

「今更人生態度を変えてもメリットはないんじゃないか、いまで大きな問題もなくやってきているし」とお考えになるかもしれません。
ごもっともなお考えです。不利益を感じていないものに労力はかけたくないのが自然な反応です。

しかしながら、アドラーさんが言う「人は一生その基本的な態度「ライフスタイル」を使い続ける」ことが真実であり、ベックさんの認知モデルの「中核信念」が、多少なりとも非機能的であるものの、活性化していない状態、という場合には「脆弱性」を抱え続ける可能性がある、ということは言えると思います。

1.マインドフルネスで「人当たりを良くする」方法

ここでは「慈悲の瞑想」をご紹介します。

自分と周囲の人を完全にパリティ(同等、等価)ととらえ、それを生き方の基礎とすることです。

「Ⅳ.それでは「人当たりがよくなる」とはどういうことでしょうか?」の「1.答え」でご説明した内容を再度掲載します。

『自分を肯定して自分を大事にする感覚を養い、自分を大事にする感覚を他者にも拡大して、他者を肯定して尊重することです。
自分を肯定するとは、自分の欲求を肯定することです。自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持つことです。
自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持ち、うまくゆかなくても自分を責めず、良いことが合ったら素直に喜ぶ、そして他者にもそのような心の在り方であることを認め、その様であってほしいと望むことです。』

慈悲の瞑想は、上記のような心に導くことを目的とした瞑想です。

「慈悲の瞑想」は、ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)の開始時に、集中力を高めるために行うことが推奨されており定型文を、心の中で唱えるものです。
ヴィパッサナー瞑想の開始時は集中力が高まっていませんので、「妄想」=「瞑想対象に意識を向けることを妨げる、今ここにないことがらについての想像」が生まれやすいため、比較的集中しやすい慈悲の瞑想を行い、集中力を高めることをねらっています。

「慈悲の瞑想」は、意味を改変しない限り、瞑想文を変えることが認められています。
瞑想文を変えることができますから、自分の「人当たりが良くなる」他者との向き合い方へと、自分を導くよう瞑想文を作ることもできます。

ここでは「人当たりを良くする」という観点から「慈悲の瞑想」を紹介します。

慈悲の瞑想、マインドフルネスの効果性には根拠があるの?という疑問をお持ちの方は、先に次の「Ⅵ.慈悲の瞑想は、人間心理に基づいた合理的な方法」をご参照ください。

2.基本となる「定型の慈悲の瞑想」

慈悲の瞑想には以下のような「定型の慈悲の瞑想」があります。

私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私にさとりの光があらわれますように
私が幸せでありますように(三回繰り返し)

私と親しい人々が幸せでありますように
私と親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私と親しい人々の願いごとがかなえられますように
私と親しい人々にさとりの光があらわれますように
私と親しい人々が幸せでありますように(三回繰り返し)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(三回繰り返し)

私が嫌いな人々も幸せでありますように
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとり光があらわれますように

私を嫌いな人々も幸せでありますように
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとり光があらわれますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
(終了)

これを心の中で唱えるだけです。声は出しても出さなくても構いません。
朝起きたときと寝る前が良いでしょう。仕事の合間でも構いません。
当然1日一度よりは2度、2度よりは3度の方が効果的です。

注意していただきたいことは、心の中で唱えるときに、瞑想文に集中することです。
人間は定型の作業をやるときには、半ば無意識的に、たとえていえば省エネモードのように、意識のエネルギーを使わずにやります。
人間の脳は省エネできるところは、勝手に省エネしてしまいます。

瞑想については省エネモードは使わないでください。

単純な言葉の繰り返しなので、最初に取り組む方はすぐに「飽き」てしまいます。
この「飽き」に抵抗して、瞑想文に意識を向け続けることが「集中力」です。
駆け足でやろうとせず、急がず、緩やかになりすぎず、集中するようにしてください。

簡単な瞑想文ですが、瞑想文以外のことに意識が向かうと、言い間違えたり順序を間違えたりして、瞑想文を「噛ん」でしまいます。
「瞑想文以外のことに意識が向かった状態」が、一般的にいう「雑念」の生じた状態です。

集中できていない瞑想はあまり効果が出ません。

「悩み苦しみがなくなりますように」については、特段悩み苦しみはないけど・・・という方もいらっしゃると思います。
「悩み苦しみ」は、「嫌だと感じること」「苦痛に感じること」と理解してください。
「嫌だと感じること」「苦痛に感じること」ならばどなたにもあるでしょう。
「嫌だと感じること」「苦痛に感じること」を慢性的に感じると、ベックさんの認知モデルの「気分を下げる自動思考」を生み出しやすくしてしまいます。

「さとりの光」の部分には少し仏教的な色彩がありますが、「さとりの光があらわれますように」の意味するところは『幸せになるための新しい認識、悩み苦しみをなくすための新しい認識、願いごとをかなえるための新しい認識が現れますように』という意味だと理解してください。

定型の慈悲の瞑想は、平易な文言を唱える瞑想なので、集中力が高まりやすいという特徴があります。
ヴィパッサナー瞑想を開始する前に行う集中力を高める瞑想=サマタ瞑想として優れたものです。

ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)を一定程度やると、定型の慈悲の瞑想の終わり部分までくると、集中力が高まっているのが実感できます。

3.自分を徹底的に肯定するための「慈悲の瞑想」

ここでは自分を肯定するために、少しくどいくらいに自分を肯定する瞑想文ご紹介します。

定型の慈悲の瞑想は、慈悲喜捨をはぐくむための有効な瞑想ですが、自分についての否定的な認知、つまりアドラーさんの「ライフスタイル」が自己に厳しかったり、交流分析の「人生態度」が「自己否定」であったり、ベックさんの「中核信念」が「非機能的」なものであった場合には、「私が幸せでありますように~」の部分がなかなか心に入ってきません。

そこで、自分を徹底的に肯定する慈悲の瞑想文を作りましたので、ご紹介します。

ご両親や生育環境が厳格であったりして、「自分の欲求を認めてもらない」環境下で育ち、自分自身が「欲求を主張すること」に「抑制的」だと感じる方、自分の欲求より相手の欲求を優先してしまう方には、特に有効だと考えます。
また、自分が「こうしたい」と思うと同時に「しない方がいい理由「できない理由」を考えたりする方は、自分がそれを望んでもよいという感覚が持てないと同時に、自分にそれを「実現する力」があることを認識していない場合もあります。

この瞑想は、自分のための瞑想です。自分の欲求を肯定するための瞑想です。自分で自分を認めてあげて肯定してあげてください。
慈悲の瞑想は、自分を肯定し、その肯定の感情を他者にも及ぼす瞑想です。

肯定の感情を他者に及ぼすことで、「人当たりを良くする」効果を狙っています。
ですから、自分の欲求を肯定できないと、他者へ及ぼす肯定の感情が生まれません。

少し注意点があります。

この瞑想ににより、今までとは異なる心理的態度になり、行動も積極的になるので、多少行き過ぎたりしてうまくいかないこともあります。
自分の欲求や考えを素直に伝えたら、周囲の人から引かれた、というようなケースを思い浮かべてください。
それはあなたの心が変わり、今までとは違う外界への働きかけ方をしたため、と思ってください。

自分に対する応援歌くらいに思って、軽い気持ちでやってみてください。

私が幸せでありますように
私は幸せであることを望んでよい存在です
私は幸せであることを許されている存在です
私は幸せを実現する力をもった存在です
私が幸せであるよう心から願います
私が幸せでありますように

私の悩み苦しみがなくなりますように
私は悩み苦しみがなくなることを望んでよい存在です
私は悩み苦しみがなくなることを許されている存在です
私は悩み苦しみをなくす力をもった存在です
私は悩み苦しみがなくなることを心から願います
私の悩み苦しみがなくなりますように

私の願いごとがかなえられますように
私は願いごとをかなえることを望んでよい存在です
私は願いごとをかなえることを許されている存在です
私は願いごとをかなえる力をもった存在です
私は願いごとがかなえられるよう心より願います
私の願いごとがかなえられますように

私にさとりの光があらわれますように
私はさとりの光があらわれることを望んでよい存在です
私はさとりの光があらわれることを許されている存在です
私はさとりの光があらわれる力を持っています
私にさとりの光があらわれるよう心より願います
私にさとりの光があらわれますように

私が幸せでありますように
私は幸せであることを望んでよい存在です
私は幸せであることを許されている存在です
私は幸せを実現する力をもった存在です
私が幸せであるよう心から願います
私が幸せでありますように(以上三回繰り返し)

お気づきかと思いますが、この瞑想には「周囲から」のたぐいの内容は入っていません。
周囲の方の反応は、あなたが直接コントロールできないからです。コントロールできないことは願っても意味がありません。

自分がコントロールできるのは自分だけです。自分も他者も幸せであれと願う心を作ることで、自分も他者も大切にする心を養うことが目的です。
自分を大切にすることを心がければ、あなたの表情が変わり、あなたの言葉が変わり、あなたの行動が変わります。

あなたの表情が変わり、あなたの言葉が変わり、あなたの行動が変われば、他者のあなたへの印象や評価が変わります。

他者のあなたへの印象や評価が変われば、あなたは周囲からの反応の変化を受けて止めて確実に「人たりの良い」人になります。

3-3.自分を徹底的に肯定するための「慈悲の瞑想」その2

上記の『3.自分を徹底的に肯定するための「慈悲の瞑想」』の瞑想があまり心に入ってこない方は、次の方法を試して下さい。

順番を入れ替えます。
最初に「生きとし生けるもの」を持ってきて、その次に「私」を持ってきます。
慈悲の瞑想は、自分を肯定し、その肯定の感情を他者に向けるという構造をとります。
ですから、自分を肯定する感情が生まれてこないと、慈悲の瞑想の効果が出ません。

上記の『3.自分を徹底的に肯定するための「慈悲の瞑想」』の瞑想が入ってこない方は試してください。

最初に、生きとし生けるものへの肯定の感情を喚起し、生きとし生けるものである「私」も肯定されてよい存在、という構造にしました。
すべての生きるものは尊い、私もそのすべての生きるものに含まれるから、尊いですよね、という順序で自分を肯定します。
私も、時々このように入れ替えることをします。こちらの方が入りやすい時もあるためです。

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(三回繰り返し)

私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私にさとりの光があらわれますように
私が幸せでありますように(三回繰り返し)

私と親しい人々が幸せでありますように
私と親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私と親しい人々の願いごとがかなえられますように
私と親しい人々にさとりの光があらわれますように
私と親しい人々が幸せでありますように(三回繰り返し)

私が嫌いな人々も幸せでありますように
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとり光があらわれますように

私を嫌いな人々も幸せでありますように
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとり光があらわれますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
(終了)

4.幸せを願う心を他者へ押し広げてゆく「慈悲の瞑想」

定型の慈悲の瞑想は、まず自分の幸せを願い、自分の幸せを願う心を、順次以下のように対象を押し広げてゆく構造を取っています。

①自分と親しい人々
②生きとし生けるもの
③私が嫌いな人々
④私を嫌いな人々

「③私が嫌いな人々」と「④私を嫌いな人々」は当然「②生きとし生けるもの」に含まれていますが、嫌いな人々、あなたを嫌っている人々も、あなたと同じ生命を持った生き物なのだから、そのことも忘れずに幸せを願いなさい、その理解と実践が「捨」ですよ、ということだと私は理解しています。

平易な文で、幸せを願う心の適用範囲を拡大してゆく瞑想であり、中核は「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うことにあると理解しています。

『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』は、道徳論からではありません。

ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想を続けていると必然的に『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』に至ります。

ヴィパッサナー瞑想を続けていると、自分のダメな部分も見えてきます。自分のダメな部分が見えてくると、他者にもダメなところがあること見えてきます。
慈悲の瞑想は、まず自己肯定です。ダメなところのある自分も肯定します。

そうするとダメなところのある他者も肯定せざるを得ないよね、という考え方に必然的に至ります。
あなたが嫌いな人、あなたを嫌いな人も、自分と同じ「命あるもの」として肯定せざるを得なくなります。

だから『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』に至ります。自分を超越した論理としての道徳論からこのように感じるのではありません。

人は自分を一番大事に感じている、それゆえ自分を大事にしてよい、ならば他者も自分が一番大事だし、他者も大事にしなければならない、それは結局自分を大事にすることと同じだよね、という感覚が心の中に生まれるのです。

終局的に「生きているものは皆大切にすべきである」から「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願う瞑想に結実します。

難点は、「生きとし生けるもの」という概念が広漠としていてイメージがつかみにくいことです。
「生きとし生けるもの」にうまくリアリティがわかず、瞑想中に「生きとし生けるもの」のイメージを作ろとすると、そちらに注意が向かってしまい、瞑想の本来の目的を逸脱してしまいます。

そこで「生きとし生けるもの」にリアリティを持たせるため、以下のような瞑想文にしてみました。

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

私の目に映る人々はみな生きとし生けるものです
私の目に映る人々が幸せでありますように
私の目に映る人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の目に映る人々の願いごとがかなえられますように
私の目に映る人々にさとりの光があらわれますように
私の目に映る人々が幸せでありますように

私が嫌いな人々も生きとし生けるものです
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとりの光があらわれますように
私が嫌いな人々も幸せでありますように

私を嫌いな人々も生きとし生けるものです
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとりの光があらわれますように
私を嫌いな人々も幸せでありますように
(瞑想文以上)

「生きとし生けるもの」から「私の目に映る人々」ではだいぶ矮小化されていますが、あなたが日々接する人々について、幸せを願い、悩み苦しみがなくなることを願い、願いがかなえられることを願うことになりますから、これが心の中に定着するだけで心は相当に変化します。

朝は今日一日の行動を想定して瞑想し、夜は明日の行動を想定して瞑想し、電車やバスの中、仕事中に少し時間ができたときなどに、「私の目に映る人々が幸せでありますように」という一文を思い出してください。

これを続けていると、人が話しかけてくるようになることが増えます。
あなたがもつ雰囲気が確実に変わっている証拠です。

4.幸せを願う心を他者へ押し広げてゆく「慈悲の瞑想」

定型の慈悲の瞑想は、まず自分の幸せを願い、自分の幸せを願う心を、順次以下のように対象を押し広げてゆく構造を取っています。

①自分と親しい人々
②生きとし生けるもの
③私が嫌いな人々
④私を嫌いな人々

「③私が嫌いな人々」と「④私を嫌いな人々」は当然「②生きとし生けるもの」に含まれていますが、嫌いな人々、あなたを嫌っている人々も、あなたと同じ生命を持った生き物なのだから、そのことも忘れずに幸せを願いなさい、その理解と実践が「捨」ですよ、ということだと私は理解しています。

平易な文で、幸せを願う心の適用範囲を拡大してゆく瞑想であり、中核は「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うことにあると理解しています。

『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』は、道徳論からではありません。

ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想を続けていると必然的に『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』に至ります。

ヴィパッサナー瞑想を続けていると、自分のダメな部分も見えてきます。自分のダメな部分が見えてくると、他者にもダメなところがあること見えてきます。
慈悲の瞑想は、まず自己肯定です。ダメなところのある自分も肯定します。

そうするとダメなところのある他者も肯定せざるを得ないよね、という考え方に必然的に至ります。
あなたが嫌いな人、あなたを嫌いな人も、自分と同じ「命あるもの」として肯定せざるを得なくなります。

だから『「生きとし生けるもの」=「あなたと同じ生命をもった生き物」すべての幸せを願うこと』に至ります。自分を超越した論理としての道徳論からこのように感じるのではありません。

人は自分を一番大事に感じている、それゆえ自分を大事にしてよい、ならば他者も自分が一番大事だし、他者も大事にしなければならない、それは結局自分を大事にすることと同じだよね、という感覚が心の中に生まれるのです。

終局的に「生きているものは皆大切にすべきである」から「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願う瞑想に結実します。

難点は、「生きとし生けるもの」という概念が広漠としていてイメージがつかみにくいことです。
「生きとし生けるもの」にうまくリアリティがわかず、瞑想中に「生きとし生けるもの」のイメージを作ろとすると、そちらに注意が向かってしまい、瞑想の本来の目的を逸脱してしまいます。

そこで「生きとし生けるもの」にリアリティを持たせるため、以下のような瞑想文にしてみました。

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように
生きとし生けるものにさとりの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

私の目に映る人々はみな生きとし生けるものです
私の目に映る人々が幸せでありますように
私の目に映る人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の目に映る人々の願いごとがかなえられますように
私の目に映る人々にさとりの光があらわれますように
私の目に映る人々が幸せでありますように

私が嫌いな人々も生きとし生けるものです
私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私が嫌いな人々にもさとりの光があらわれますように
私が嫌いな人々も幸せでありますように

私を嫌いな人々も生きとし生けるものです
私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように
私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように
私を嫌いな人々にもさとりの光があらわれますように
私を嫌いな人々も幸せでありますように
(瞑想文以上)

「生きとし生けるもの」から「私の目に映る人々」ではだいぶ矮小化されていますが、あなたが日々接する人々について、幸せを願い、悩み苦しみがなくなることを願い、願いがかなえられることを願うことになりますから、これが心の中に定着するだけで心は相当に変化します。

朝は今日一日の行動を想定して瞑想し、夜は明日の行動を想定して瞑想し、電車やバスの中、仕事中に少し時間ができたときなどに、「私の目に映る人々が幸せでありますように」という一文を思い出してください。

これを続けていると、人が話しかけてくるようになることが増えます。
あなたがもつ雰囲気が確実に変わっている証拠です。

Ⅵ.慈悲の瞑想は、人間心理に基づいた合理的な方法

慈悲の瞑想は、おまじないでも、願いが叶う呪文でもありません。
人間心理の観察に基づいた、きわめて合理的な、自分を、自分が願う方向へ変えてゆく方法論です。

ヴィパッサナー瞑想との併用が理想的ですが、慈悲の瞑想だけでも効果はあります。

1.慈悲の瞑想の目指すもの

慈悲の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想に入る前に行うことが推奨されているサマタ瞑想=集中力を養う瞑想です。
ヴィパッサナー瞑想をより効果的に行うために、ヴィパッサナー瞑想開始時に集中力を高めるために行います。

しかしながら、慈悲の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想の補助的な位置づけの瞑想ではなく、それ自体でも効用を持っています。

慈悲の瞑想の目指すものは「四無量心」であり、「四無量心」を理解し「四無量心」を実践した時に、「慈悲の瞑想」の効用が発揮されます。

その四無量心とは、すでにご説明した、
『自分を肯定して自分を大事にする感覚を養い、自分を大事にする感覚を他者にも拡大して、他者を肯定して尊重することです。
自分を肯定するとは、自分の欲求を肯定することです。自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持つことです。
自分が望むことは否定されていない、是認されているという感覚を持ち、うまくゆかなくても自分を責めず、良いことが合ったら素直に喜ぶ、そして他者も、そのような心の在り方であることを認め、その様であってほしいと望むこと』です。

四無量心とは、慈悲喜捨と説明されます。

慈悲喜捨とは、

慈:いたわること
悲:悲しみを知ること
喜:喜ぶこと
捨:自分と他者を分け隔てないこと、自分の価値判断で人を区別しないこと

「生きとし生けるもの」に対して、分け隔てなく(=捨)慈悲喜を向ける」=「自分と自分の外界への向き合い方」を獲得することで、苦しまなくてよいことに苦しまなくなり、苦しまなくてよいことに苦しまないことで、智慧がうまれ、智慧は願い事の成就へとあなたを導きます、というが慈悲の瞑想の効用です。
この場合の「智慧がうまれ」の意味するところは、「あなたの悩み苦しみをなくすための新しい認識の獲得」「あなたの願いごとをかなえるための新しい認識の獲得」「あなたが幸せであるための新しい認識の獲得」ということです。

「慈悲の瞑想」を続けていると感じ方が変わってきます。

『Ⅰ.このブログがお役に立ちそうな方 1.知らない人と会うのが苦手な方』の項目で、『ヴィパッサナー瞑想では、「心に起こった変化で、このような変化ならどんなに起こってもよいと感じること」を「欲」ととらえます』とご説明しました。 
私の場合は、ヴィパッサナー瞑想で自分の悩み苦しみ(後悔であることが多いです)を観て、後悔するに至った原因に、上記のような「欲」や「怒り」があることを観(認識し)たときに、「慈悲の瞑想」が以下のような意味に理解されるようになりました。

わたしには嫌いな人も、わたしを嫌いな人もいます。わたしが「欲」や「怒り」から嫌な思いを経験しているように、わたしが嫌いな人も、私を嫌いな人も嫌な思いをしていて、その根底には「欲」や「怒り」がある。だから嫌いな人、嫌われている人であっても、「生きとし生けるもの」「欲」や「怒り」を抱え嫌な思いをしている人という「大きな」共通性の前では、すべて平等である。生きているものはすべて価値あるものである。

これが「悲」であるように感じます。「悲」は自分に生じた悲しいを感情を「捨」を通じて、他者にも及ぼすことです。
「悲」は、自分に新しい認識=智が生じたことによる心の変化であって、「役割行動」から生まれてくる振る舞いではなく、また自分の利益を願うこと「欲」から生じる振る舞いでもありません。

この考えを敷衍してゆけば「賞賛されることをしているから価値がある人」「重大犯罪を犯したから生きている価値がない人」という考え方は、「生きているだけで価値のある人が賞賛されることをしている」「生きているだけで価値のある人が貪りや怒り、無知から重大犯罪をおかしてしまった」という認識に転換されます。

また、慈悲の瞑想で、注意してもらいたいことは、嫌いな人、私を嫌っている人を好きになりなさい、とは言っていないことです。

例えばウソをついてもなんとも思わない人がいたならば、その人と積極的に付き合うことで、あなたは幸せになれるでしょうか。なれないように思います。
自分がその人と親交することで、自分が不幸になるであろう人を好きになる必要はないということです。自分が幸せであるためには必要なことです。

そのうえで、嫌いでもよいが、嫌いなあの人も「命あるもの」「貪り」「怒り」「無知」を抱え悩み苦しんでいるがゆえにあなたに嫌われるような行動をとっているのかもしれないから、それは悲しいことだと考えてあげればいいだけで、憎む必要も攻撃する必要もありませんよね、憎んだり攻撃したりすることはあなたの苦の原因になりますよね、ということであると理解しています。

「憎んだり攻撃したりすることはあなたの苦の原因になります」という部分は、すぐには同意いただけない部分かもしれません。

一般的には、嫌いな人に対するコーピング(対処法)は攻撃する、に結び付きやすいように思います。
攻撃する、というコーピングは、自分の心に生じた「嫌い」という感情=「苦」を、嫌いな人を攻撃するという行為で紛らわしている、と考えられます。

しかしながら「嫌い」という感情は、相手を認知したあなたの心の中に現れた感情です。

「嫌いな人」がいるのではなく、あなたが、あなたのこころの中に「嫌い」という感情をつくりだしたものと言えます。

あなたが、嫌いな人を攻撃したならば、あなたの心の中に作り出した「嫌い」という感情によって生じたあなたの「苦」を紛らわすために、嫌いな人を攻撃するということになります。 
そのように考えると、嫌いな人を攻撃するという行為は、相当に利己的、自己中心的な行為に感じられると思います。

2.マインドフルネスとカウンセリングの共通点

ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)は、「individualism」が徹底しています。自己を超越した権威や価値観、救済手段は想定していません。

人間を超えたものの慈悲にすがるという発想は全くなく、自らが自らの心を観て、他者の心を観て、悩み苦しみを乗り越える方法を獲得し、慈悲喜捨の心をもって、この世を生きてゆきなさい、という思想です。

自己を超越した権威や価値観、救済手段は想定していませんし、人間を超えたものの慈悲にすがるという発想は全くありませんから、ご自身でやってもらうしかありません。

実はカウンセリングも同じ考え方です。

カウンセラーを援助者ということがあります。

これは、主体的に問題に取り組むのはクライアントであって、カウンセラーはクライアントの主体的な取り組みを補完する援助者である、という考え方からです。
クライアントの抱える問題は、クライアントが主体的に取り組まない限り、問題の解消には至りませんから、カウンセラーの役割は、クライアントの主体的な取り組みを促進する援助者である、ということです。

ですから、自分は「人当たりが良い」「人当たりがあまり良くない」についても、ご自身でご判断いただくことが必要です。
一律の基準があって「良い、悪い」を判断するものではありませんし、ましてや私が判断するものでもありません。

カウンセラーは、あなたの価値判断に容喙(関与)しません。

カウンセラーは、あなたの認識する課題の解決を援助をすることが使命です。

3.なぜ慈悲喜捨が大事なのでしょうか

なぜ慈悲喜捨が大事なのかを考えるときには、嫉妬を考えるとわかりやすいです。

結婚相談所なので、婚活での「嫉妬」を”わかりやくすく”想定してみましょう。

たとえば知り合いAさんが、誰もがうらやましがるような結婚、「玉の輿婚」をしたとします。

独身で婚活をしているBさんは口にこそ出さないものの、「なんであの人が玉の輿婚なのよ」と思い「私だっていい彼氏ゲットしてやる」と決意を新たにしました。

一方、こちらも独身で婚活中のCさんは「えーすごい、よかったね、おめでとう」と思い、そのままAさんに伝えたとします。

この場合、婚活で成功しそうな確率の高い方はどちらでしょうか?

慈悲喜捨の考え方から説明するとCさんです。

道徳論や処世術にかなっているから、という理由ではありません。

人間の心の働きから、Cさん、ということになるのです。

その理由は、Cさんは、Aさんの玉の輿婚を素直に「喜び」Aさんに伝えてます。このことは慈悲喜捨の「喜」と「捨」の行為です。
Cさんは、Aさんの「喜ばしい」ことは、他者のことであれ「喜」んで、その喜びをAさんに伝えました。この行動が「捨」、つまり他者に生じた「喜ばしいこと」も自分に生じた「喜ばしい」ことと同様に「喜ぶ」ことです。
他者に生じた「喜ばしいこと」ことを喜ぶことは、「喜ばしいこと」を肯定することであり、自分が「喜ばしいこと」を手にすることを肯定することになります。

Bさんは、Aさんの玉の輿婚に「なんであの人が玉の輿婚なのよ」と嫉妬してしまいました。

嫉妬とは自分が欲しいものを他者が手にいたときに起こる感情です。

そして嫉妬することは、ここが大事なところです、自分が欲しいものを、他者が手に入れたことをやっかむことによって「否定」し、「否定」することによって、自分が望むものを手に入れることをも「否定」してしまいます。

近代的な人間像は、自由な意思をもった独立した人間ですが、一方では人間は社会的な存在で、他者との関係を抜きにしては理解できません。

人間は、幸不幸について、どうも自分と他者を明確に区別することが苦手なようなのです(一部には例外の方もいます)。
自分の幸せを願いつつ、他者の不幸を願う、ということは意識の上ではできても、他者の不幸を願えば願うほど、自分が望む幸福から自分を遠ざける結果となってしまう、ということになります。

ということは、幸せになりたかったら自分の幸せを願い、同じように他者の幸せも願いなさい、つまり自他の区別を捨てる「捨」の心=認識方法を備えなさい、というのが慈悲の瞑想の教えるところであり、ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスの目指すところです。

先に挙げたアドラーさんは、人が適応的に生きるためには健全な「共同体意識」が必要だと説きました。他者に対して懐疑的、否定的、攻撃的になる「ライフスタイル」では自分が幸せになれない、ということです。

4.ベックさんの「否定的認知の3徴」へ働きかけることができる

アーロン・T・ベックさんは、「自分に対しての否定的な考え」「周囲の人との関係についての否定的な考え」「将来についての否定的な考え」を、うつの否定的認知の3徴といっています。

否定的認知は、あくまでも、自分が心の中にいだいている「認知」です。幸不幸の感情は、あなたの心の認知、心の反応から生まれると言っていいでしょう。

否定的認知は、自分が心の中にいだいている「認知」なので自分で改善できます。

慈悲の瞑想は、「自分に対しての否定的な考え」「周囲の人との関係についての否定的な考え」に対して働きかけ、「将来についての否定的な考え」も改善する方法です。

自分の心の反応を変え、自分の行動を変えることによって、周囲からの反応を変えて、あなたが悩み苦しみを乗り越え、願いをかなえ、幸せになることを目指す方法です。

5.マインドフルネスと認知行動療法

私はヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスと認知行動療法は極めて類似性があると考えています。

アーロン・T・ベックさんの認知行動療法の、非機能的な自動思考、中核信念と媒介信念の特定と修正は、ヴィパッサナー瞑想による四聖諦の認識と酷似しています。

四聖諦とは、
苦聖諦(苦)とはこのようなものであり、知り尽くすべきであり、知り尽くした。
苦集聖諦(苦の原因)とはこのようであり、打ち捨てるべきであり、打ち捨てた。
苦滅聖諦(苦の滅尽)はこのようであり、目の当たりにすべきであり、目の当たりにした。
苦滅道聖諦(苦を滅尽に至る道)はこのようであり、実践すべきであり、実践した。
以上の智が生じたときに、釈迦は解脱したというものです。
ヴィパッサナー瞑想では法の随観で修習します。

四聖諦は、ベックさんの認知モデルでも説明できます。
苦聖諦は、気分の低下とそれによる身体的な不調(苦)を知った。
苦集聖諦は、非機能的な中核信念、媒介信念および自動思考が気分の低下とそれによる身体的な不調を引き起こしている、非機能的な中核信念、媒介信念および自動思考は打ち捨てるべきである。
苦滅聖諦は、非機能的な中核信念、媒介信念および自動思考を打ち捨てた(修正した)ことによって気分の低下と身体的な不調が改善することを体験した(目の当たりにした)。
苦滅道聖諦は、上記の一連の行為を実践することで、気分の低下とそれにより引き起こされる身体的な不調が改善された、これに取り組むべきである。
と言い換えられます。

四聖諦とベックさんの認知モデルの方法論は符合しています。

私自身、気分の低下を認識し、気分の低下の原因が、自分が心の中での「将来に対する否定的なつぶやき」(否定的認知の3徴の一つです)であったと知り、否定的なつぶやきを「そうと決まったわけではない」と修正したところ、気分の低下がなくなった、という体験をしたことがあります。
ヴィパッサナー瞑想を15年もやっていますので、これが「四聖諦」かとその時は思いました。

後にベックさんの認知行動療法を学んで、私が四聖諦と理解したものが、ベックさんの認知行動療法による自動思考の修正と、それによる気分の改善で説明できることを知り驚きました。

6.マインドフルネス認知療法

ベックさんの認知モデルとヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)の認知論は極めて親近性があります。
ベックさんの認知行動療法でもマインドフルネスを取り入れていますが、あくまでも一技法としてです。

それに対してマインドフルネス認知療法は、(初期)仏教の認識論にもとづいたマインドフルネス実践を中心に据えています。

「Mindfulness-Based Cognitive Therapy:マインドフルネス認知療法」の創始者のひとりであるJohn Teasdaleは、仏教の認識論とベックさんの認知モデルの類似性について以下のように言っています。マインドフルネスとの出会いとなったアメリカ生まれの仏教僧Ajahn Sumedhoの講演を聞いたときのことだそうです。

「講演中にJohnは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。」
「また仏教のマインドフルネスの中核の思想が、思考として(つまり、「事実」や「私」としてではなく、精神的事象として)思考と関係してゆくことの習慣を含むことも明白であった。人はこうすることで、自分の行動をコントロールしたり、不幸な心の状態を作り上げる役に立たない思考パターンの影響から自身を解放できるのだ。」
(マインドフルネス認知療法 原著第2版 Z・シーゲル、M・ウィリアムズ、J・ティーズデール 越川房子訳 北大路書房)

Ⅶ.最後に

ブログの内容に質問等お持ちであればメールよりお問い合わせください。メールで回答いたします。

より詳しくお知りになりたいようであれば、カウンセリングをご予約ください(無料)。ご説明いたします。

慈悲の瞑想はそれ自体でも効果がありますが、最も効果を発揮するのは、ヴィパッサナー瞑想と並行して行った時です。

ヴィパッサナー瞑想で「心随観」の段階に至り、自分を悩ませているものの原因(ベックさんのいう「非機能的な」「中核信念」「媒介信念」)に気付くことができて、それを意識的に修正するための瞑想文を作り、瞑想すると効果的です。

私は、この方法論が釈迦が説いた「四聖諦」だと考えています。
四聖諦を説明しているものはあっても、四聖諦の実践方法を説明しているものは無いように思います。
それは四聖諦が仏教において「信仰の対象」になってしまっているからかもしれません。

慈悲の瞑想の内容や効果を説明するには、仏教の認識論に言及せざるを得ませんので、多少宗教色を感じた方もいらっしゃるかもしれません。
ヴィパッサナー瞑想も慈悲の瞑想も、東南アジアに伝わり、今も行われているテーラワーダ仏教の修行方法です。釈迦直伝の修行方法と称しています。

テーラワーダ仏教では、ヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想は、解脱を目指して行われるものですが、出家していない方が解脱を目指す「瞑想」を行うことは現実的ではありません。
自分の人生を、よりストレスの無いものにする、より良いものにすることを目指して行う方が現実的です。

四聖諦とベックの認知モデルについてご説明したように、ヴィパッサナー瞑想を続けることによる認知の深まりは、認知行動療法と同様の効果をもたらします。
QOLを上げることが出来ます。
加えて、私は仏教徒ではありませんので、仏教の方法論(信仰)に縛られる必要がありません。

テーラワーダは宗教ではない、という言われる方もいらっしゃいます。
効果が証明できないものを信じることが宗教であるならば、ヴィパッサナー瞑想は、しっかりとやれば釈迦と同じ解脱に至り、効果を証明(自ら行うことのよって)できるので、宗教ではない、というのがその理由です。十分に説得力があります。

そうであれば、カウンセラーとして、

・願いごとをかなえるためのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・悩み苦しみを乗り越えるためのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・幸せになるためのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・能力開発としてのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想
・心理療法としてのヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想

として活用すればよいのではないかと考えています。

私は、仏教も含めて宗教を信仰しておりませんので、勧誘、布教の意図は全くございませんので、ご安心ください。

また、マインドフルネスは「禅の考え方による」と説明されることがありますが、このブログでは、ヴィパッサナー瞑想をマインドフルネスとしています。仏教の認識論と瞑想方法に依拠もしくは、活用するという観点からは、禅であれヴィパッサナー瞑想であれ決定的な違いは無いように思います。
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