INDEX
なぜ心が苦しむのか
皆さんはなぜ心が苦しむとお考えですか?
心が苦しむ原因は、あなたの外部にある出来事に、あなたの心が反応して、「あなたの気分を落ち込ませるようなイメージを想起したり言葉による記述をしてしまう」からです。
「あなたの気分を落ち込ませるようなイメージを想起したり言葉による記述をしてしまう」ことを「非機能的な自動思考」と言います。
「非機能的な自動思考」は半ば無意識的に生起します。ですから日常的に生起しています。
「非機能的な自動思考」は、気分を落ち込ませて、それにより、身体に影響を与え、胸が圧迫される感じや息苦しい感じをもたらします。
もしあなたが疾患を抱えていないにもかかわらず、「胸が圧迫される感じや息苦しい感じ」を経験したすれば、それは「非機能的な自動思考」が生起したと考えてよいでしょう。
「非機能的な自動思考」は記憶され、似たような状況、出来事に遭遇した際に再生産されます。
このような状況が続くと、悲しい気分になり、悲しい気分が合理的に思考することを妨げます。
その結果「わたしには無理なんだ」という「およそ合理的とは思えない」結論と導きだしたりします。
怖ろしいのは、普段なら「およそ合理的とは思えない」と感じるような思考や決断を、悲しい気分の時には適切なものと感じてしまうことです。
これは「およそ合理的とは思えない」思考や決断で、自分の悲しい気分を紛らわそうとしているのだと考えられます。悲しい気分がもたらした不適切なコーピング(対処方法)と言えます。悲しい気分になっていないか、ということに注意することにも効果はあります。
「無理なんだからすっぱりあきらめる」というのであれば合理的な決断と言えるかもしれません。
しかし「無理なんだからすっぱりあきらめる」のでない場合には、自分の欲求(感情)と、自分の選択との間で苦しむことになります。
このような状況におちいらないためには、どうしたらよいと思いますか?
「非機能的な自動思考」を感知して修正しましょう
ということを提案いたします。
非機能的な自動思考を、機能的なものに修正すれば、気分の落ち込みや、「胸が圧迫される感じや息苦しい」感じや、「およそ合理的とは思えない」結論と導きだしたりすることを避けることが出来ます。
「非機能的な自動思考」という概念を提出したアーロン・T・ベックの認知行動療法では、セラピスト(カウンセラー)との協働により行います。
認知行動療法では、一人では「非機能的な自動思考」の特定、検討、修正が難しい、という方を対象としているからです。
しかし、ここで誤解しないでいただきたいことは、『一人では「非機能的な自動思考」の特定、検討、修正が難しい方』とは『無力な方』ではなく、『自らの意思で、自身の不調を改善するために行動を起こし、なおかつ、自らの意思で、セラピストの援助を受けながら、自身の不調を改善することを選択した方』を言います。
『無力な方』ではない、というのは、カウンセリング/セラピーの基礎をなす人間観です。
このブログを読んでいただいている方の中には、時折、気分の落ち込みを感じる方がいらっしゃるかもしれません。
時折、気分は落ち込むものの、このブログの内容を一通りご理解いただけるのであれば、一人で「非機能的な自動思考」を修正することに取り組むことは可能です。
「非機能的な自動思考」を感知、修正する方法
まずマインドフルネスにより、意識を集中する訓練をします。
意識を集中する訓練により集中力が養われます。集中力が養われると、感受性が養われます。
カバットジンは、マインドフルネスを「注意集中」という意味で使って言います。カバットジンが、マインドフルネスにより「洞察力」を養う、と説明しているのと同じ方法論です。
意識を集中する訓練が、「非機能的な自動思考」を修正することにつながる経路をご説明いたします。
マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想を言います)では、体の動き、感覚、心の状態を観察することにより集中力と観察力(感受性)を養います。座ってする瞑想では、呼吸による腹の動きを観ることから、体の感覚、心の状態を観ることへと進んでゆきます。
この過程で、瞑想対象に集中するためには、作為のない自然な呼吸が安定的なものであることが必要なことが理解されます。安定的に作為のない自然な呼吸ができるようになるためには、姿勢が安定することが必要になります。姿勢が安定するためには、上半身の重さを腰に乗せて安定的な姿勢(頭・肩・腰が垂直に一直線上に配置され、腹をやや前に押し出し背骨がS字になり重さを支えるイメージ)を取り、なおかつ姿勢維持に必要な筋力以外は脱力する必要があります。力が入っていると安定的な姿勢を持続できません。
このような呼吸と姿勢が実現したうえで、腹の動きを観る、体の感覚を観ることを行っていると、思考しないことにより感情が生起しないこと、思考し感情が生起することで、体に力みが生じる(意図せず力がはいる)ことが理解できます。
思考、感情は体に影響を与えるということが体感できます。
後にご説明する「止」の状態です。
「非機能的な自動思考」は「気分を落ち込ませて、それにより、身体に影響を与え、胸が圧迫される感じや息苦しい感じ」を及ぼします。
「止」の状態が体験できると、日常の中でも体に感じる感覚、つまり「胸が圧迫される感じや息苦しい感じ」を、比較的容易に感知することができるようになります。
「胸が圧迫される感じや息苦しい感じ」が感知されたら、それは「非機能的な自動思考」が生起したことになりますから、自分にこのように質問します。
「たった今、どんなことが頭に浮かんだだろうか?」※
ここからは認知行動療法の認知モデルに基づく対処になります。
感覚は「胸が圧迫される感じや息苦しい感じ」等を感知しているのですから、「非機能的な」「自分を落ち込ませる」思考(言葉による記述)を特定することはそんなに難しくありません。
「非機能的な」「自分を落ち込ませる」思考(言葉による記述)を特定できたら、それが「機能的なものであるか、非機能的なものであるか」検討してください。
一概に否定したり、ポジティブに考えればいいんだ、とは考えないでください。
一概に否定したのであれば、自分の心に疑念が残ります。ポジティブに考えればいいんだ、では自分への説得力がありません。
「自分の頭に浮かんだこと」が、常識的に考えて無理がないか、合理的な考え方であるか、その考え方がほかの人にも適用できるか等の観点から検討して合理的、現実的な思考(言葉による記述)に修正してください。
この作業により、「胸が圧迫される感じや息苦しい感じ」はなくなっているはずです。
この一連の作業を、日常的に行えば気分が落ち込むことは、確実に減少します。
さらには、あなたが外部の出来事や情報に接した際に「この情報は自分の気分を下げる思考を引き起こしそうだ」ということを予測して、あらかじめ「自分の気分を下げる思考を引き起こないように」することも可能になります。
この心の働き、プロセスは、仏教の認識論(心理把握)で、「行」を起こさず「業」を生まない、と説明できます。
このような段階までくれば、まったくなくなる、というわけではありませんが、気分が落ち込む頻度は劇的に改善されます。
※認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで第3版ジュディス・ベック星和書店より
マインドフルネスにはもう一つの経路があります
非機能的な自動思考の検出、修正は意図的に行うものですが、マインドフルネスでは「意図的におこなわない」ことによる問題解決能力が働きだします。
このことを、カバットジンは、以下のように説明しています。少し長くなりますが、重要な機能ですので引用します。
「私たちは、まず彼らに、このプログラムを行うことで達成したいと思っているゴールを3つ挙げるように言います。そして次に、これから8週間の間に各自があげた3つのゴールを達成しようと努力しないように、と言い聞かせます。(中略)瞑想法の指示に従い、ひたすら今の状態を受け入れるように、と指導するのです。やってみればおわかりになることですが、瞑想の場合、ゴールに到達するための一番良い方法は、結果を急いでむやみに努力しようとしたりしないで、瞬間瞬間の事柄に注意を集中して、受け入れる、ということなのです。忍耐づよく規則正しく取り組んでさえいれば、ゴールはおのずと近づいていきます。そして、おのずと近づいていく力は、あなたのなかから生まれてくるのです。」
「とらわれないということは、あるがままのものごとを受け止めるための方法です。自分の心が何かにとらわれたり、何かを追いやろうとしていることに気がついたら、そういう衝動を意識的にとき放って、そのあと、どんなことが起きるのかを観察するようにしてみてください。そのとき、あなたが自分の体験を評価しているということに気がついたら、その評価自体にはこだわらないで、手放すようにしてください。評価したことは認めるにしても、それ以上の深追いはやめるのです。その事実はみとめながら、手放すのです。過去や未来についての思いがわいてきても、同じようにとらわれず、成りゆきを観察するようにしてください。(中略)とらわれないことに成功しようと失敗しようと、積極的に事態を観察しようという心構えがあれば、瞑想から得られるものは大きいはずです。」
これは、「止」と「観」を説明したものと考えられます。
「止」は思考を止めることです。「観」は思考を止めて「観察」に徹することです。
思考を止めると、心があっちこっちへさまよいません。思考を止めると感情は生起してきませんから、好悪の感情も起こりません。感情がおこらないので「観」に徹することが出来ます。
「観」に徹することで「智慧」つまり、「感情」に影響されない、こうすればよい、という考えが自然に生起します。
これが、『「意図的におこなわない」ことによる問題解決能力が働きだします』の意味です。
そしてこれは瞑想、マインドフルネスに取り組まなければ理解も体験もできないものですから、カバットジンは、「おのずと近づいていく力は、あなたのなかから生まれてくるのです」「瞑想から得られるものは大きいはずです」という説明にとどめているのでしょう。
カバットジンの説明方法は、私が釈迦に感じる指導法「このようになるはずだから、自分でやってみて確かめなさい」という指導法にも通じるものであるように思えます。
この瞑想の機能を活用すれば、「なかなかうまくゆかない、どうしたらよいかわからない」というときには、瞑想してぐっすり眠り、目覚めたら瞑想することで、おのずと、どのようにしたらよいか、答えがでてくる、ということになります。相応の努力をもって瞑想することは必要ですが。
マインドフルネスの目的は「心が苦しむことを止める」
であると、私は考えています。
マインドフルネスに取り組む過程で「止」「観」による「感情に影響されない認識方法」、「智慧」が生じますので、課題解決能力や創造性開発にも当然につながりますが、それは副次的な効果であるととらえています。
すでにお話した、カバットジンのマインドフルネスストレス低減法は、慢性疾患等に苦しむ方々の心理的苦痛(ストレス)を低減する方法としてスタートしました。
慢性疾患、例えば慢性的な疼痛に苦しむ方であっても、心理的な苦痛は低減できて、より豊かな生き方ができる、という風に考え、それを実現する方法です。
うつの再発予防プログラムの創設を企図していたティーズディールたちは、仏教の認識論(心理把握)とベックの認知モデルとの共通性に触発され、マインドフルネスストレス低減法に基づき「マインドフルネス認知療法」を創始しました。
心理療法も仏教の認識論(心理把握)も、心が苦しむことを止めるための方法論です。
なぜ、私が仏教といわず「仏教の認識論(心理把握)」という言葉を使うかというと、信仰としての仏教ではなく、「心が苦しむことを止めるために役立つ考え方」という意味で「仏教の認識論(心理把握)」という言葉を使っています。
この考え方は、「マインドフルネスストレス低減法(北大路書房)の翻訳者春木豊先生が、「復刊に寄せての訳者の言葉」で述べているカバットジンの考えと同じものです。
「マインドフルネスストレス低減法は、東洋思想や技法をベースにしているのであるが、それをカバットジンはプログラム化してわかりやすくしていることである。われわれ日本人にとって、仏教は宗教であり、また特別の修行法であると思い込んでいるところがあるが、カバットジンの言葉を借りるならば、仏陀は人間の悩みの解決に取り組んだ人であり、その解決方法を示してくれているのであるから、仏教思想や修行法は万人のためのものであるということである。それを現代的にプログラム化して、問題解決に役立てるというのが、マインドフルネスストレス低減法の主旨であると言える。」
小乗だ大乗だと優劣を争っているうちに、仏教は「仏陀は人間の悩みの解決に取り組んだ人であり、その解決方法を示してくれている」という「事実」を見えにくくしてしまったように思います。
また、いったん宗門、教団が成立すると、仏教は「特別の修行法である」と印象付けることに注力してきた歴史であるようにも感じます(教相判釈)。それは伝道する側についてまわる動機であるように感じます。
釈迦の教えを伝えて来たとされる阿含経は、比較的シンプルです。それゆえ大乗からは劣った教えとされてきたようです(五時教判)。
困難を感じるのは、阿含経がすべて釈迦の語ったことかと言われると、後世の修正、加増もあり得ると考えざるを得ないことです。
植木正俊さんの「仏教、本当の教え」(中公新書2135)にはこのような記載があります。
「智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)、多聞第一のアーナンダ(阿難)など、釈尊の弟子の中で際立っていた人たちは十大弟子と呼ばれた。それは、出家の男子のみを10人列挙したものだ。ところが、原始仏典の『アングッタラ・ニカーヤ』を見ると、代表的な弟子として、男子出家者が「十大弟子」のほかに31人を加えた計41人、在家の男性が11人、女性出家者が13人、在家の女性が10人、それぞれの名前が挙げられている。中国、日本に伝わる以前に女性と在家の弟子たちすべての名前と、男性出家者31人の名前が削除されたのであろう。」
また「阿含経典」(筑摩書房)を著した増谷文雄先生は、後代の付加・増大の可能性を、その中で指摘されています。
阿含経を根本経典とする教団からは、釈迦の教えを自教団の存続にとって好都合なものに書き換えてゆく動機はあったと考えるのが自然です。
しかし信仰心は、疑念を抱かない、抱きたくない方向に作用するでしょう。
それゆえ、仏教ではなくて「仏教の認識論(心理把握)」であり、仏教ではなく「仏教の認識論(心理把握)」を活用した「マインドフルネス」ということに行き着いたのです。
「マインドフルネス」は、「マインドフルネス」として取り組んでも効果がありますが、「仏教の認識論(心理把握)」を知って取り組むことによって、より効果的に「心が苦しむことを止める」ことに取り組むことが出来ると考えています。
あなたが幸せでありますように
あなたのなやみくるしみがなくなりますように
あなたの願いがいかなえられますように