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婚活-くじけない心をつくる

「婚活マインドフルネス」の可能性を考える

このブログは、「すこやかに生きるために」の「続編」「実践編」をお話しするものです。
内容は、見出しにある通り、「マインドフルネスを活用した、くじけない心をつくるには」というお話になります。


このブログは、一度に完成させることが出来ません。

なぜならば、このブログの意図は、「自分のマインドフルネス経験を整理しつつ、認知療法を参照し、婚活への応用方法を考えること」なので、一気に完成させることが出来ないのです。
そのため、順次考えを整理しながら、書き加えてゆくスタイルを取りたいと思っています。

このブログで、自分の考え方、方法論が整理出来たら、婚活支援プランに「マインドフルネス活用プラン」のようなものを作りたいと考えています。

カウンセリングが依拠する理論の一つに「認知行動療法」があります。

認知行動療法は、カウンセリングというよりは、心理療法=セラピーの理論といった方がより正確かもしれません。
カウンセリングを学ぶにあたって、ざっと現代のカウンセリング理論を学び、手始めに勉強し始めたのが認知行動療法です。
実は、興味をもったのは「論理療法」と「認知行動療法」でしたが、論理療法は30年以上前に、創始者であるアルバート・エリスさんの著作を2冊読んでいたので、認知行動療法から始めることにしました。

認知療法はアーロン・T・ベックさんが提唱し、行動療法をとりいれ現在では「認知行動療法」と自称しています。
認知行動療法は、ベックさんが提唱した「認知モデル」による心理療法です。
ベックさんの「認知モデル」について、認知行動療法の教科書である「認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第3版(星和書店)」から引用します。

『「認知モデル(cognitive model)」が提唱するのは、端的にいうと、すべての心理学的問題の背景には非機能的な思考が共通してみられる(そしてそのような思考がクライアントの気分や行動に影響を及ぼす)ということである。自らの思考をより現実的かつ適応的に検討することが出来るようになれば、その人のネガティブな感情や行動が改善されるだろう。』

『認知行動療法は認知モデル(cognitiv model)に基づく。認知モデルとは、人の感情、行動、身体は、出来事に対するその人の理解の仕方によって影響を受ける、という仮説である(出来事には、「試験に落ちる」といった外的なものもあれば、「身体の苦痛な症状」といった内的なもののある)。つまり、人の感じ方や行動を決定するのは、状況それ自体ではなく、状況に対してその人がどう解釈するか、ということである(Beck1964;Ellis1962)』※ハイライトは原文

「論理療法」についても見ておきましょう。「論理療法 自己説得のサイコセラピー」(川島書店1992年第7刷)のカバー裏表紙からの引用です。

『論理療法は、自分の内部で発していることば(文章記述)が情緒的行動障害の原因であると考える。それは非論理的思考であるからである。たとえば「私は人にきらわれた。故に私はダメな人間である」というのは非論理的文章記述(イラショナル・ビリーフ)であり、それを「故に当分静観していよう」というような論理的文章記述(ラショナル・ビリーフ)に変えるべく、セラピストは説得を試み、クライアントは自己訓練をつづけ、情緒的障害を克服するのである。』

認知行動療法と論理療法には近似性があります。

「認知行動療法実践ガイド」の中では、このように語られています。
『認知行動療法のアプローチの中には、ベックの治療法との共通点を有していながらも、概念化や強調点に多少の違いがあるものもある。たとえば論理情動行動療法(Ellis,1962)(以下省略)』と記載されています。

一方、エリスさんの著作「論理療法」でも、「主要な共同研究者」として「アーロン・T・ベック博士」が記載されています。

認知行動療法、論理療法とも、あなたの外部での出来事が「心理学的問題」や「情緒的行動障害」をひきおこすのではなく、出来事に反応して、あなたの心に生起する「自動思考」もしくは「文章記述」があなたの心を悩ませる、としています。

このことを「心がくじける」に応用すると、『出来事』が、あなたの心をくじくのではなく、『出来事に反応して、あなたの心に生起する「自動思考」もしくは「文章記述」』があなたの心をくじく、もしくは心をくじく要因になる、と言えそうです。

認知行動療法、論理療法ともにセラピーですので、セラピスト(≒カウンセラー)の援助のもと行われることが基本です。

ここまでのお話で「思い当たることはあるけれど、セラピーやカウンセリングを受けるほどではない」とお考えの方が大半だと負います。

カウンセリングにしてもセラピーにしても「どこか問題のある人が受けるもの。わたしには問題ないから関係ない」と受け止める方も多いかもしれません。カウンセリングを学んでいる者としては、この見解には少し誤解を「含んでいる」と考えるところもあるのですが、誤解をただすことが、このブログの目的ではありませんので、この問題には深入りしません。

それでは「心がくじけない」ために何をすればよいのでしょうか。

私がこれから提案するのは「マインドフルネス」です。

マインドフルネスは、ベックさんの認知行動療法でも、技法として取り入れられており、「認知行動療法実践ガイド」著者ジュディス・ベックさんも、セラピスト(カウンセラー)が、マインドフルネスに取り組むことを推奨しています。

認知行動療法は、うつ病の治療として始まり、他の症状の治療にも応用されてゆきました(日本では、認知行動療法の効果が認められ、医療保険が使えます。)が、うつ病の再発防止プログラムを開発しようとした模索から、「認知療法の原理と実践をマインドフルネスの枠組みの中に統合」した「マインドフルネス認知療法」(Mindfullness-Based Cognitive Therapy)が考案されています。

このようなお話をすると、「ほら、やっぱり、カウンセリングは問題のある人が受けるものなんだ、わたしには問題がないから関係ない」とお感じになるかもしれません。

しかしこのように考えてみてください。

「うつ病の人にも効果があるのだから、うつ病ではない、心がくじけた(と感じる)人、婚活疲れちゃったという人には、もっと効果があるのではないか」

現在カウンセリングの勉強をしているのですが、その講師(実際のカウンセリングに携わられている方です)によれば、「うつ状態」(うつ病ではない)という診断は、病気になった場合にはしばしばなされるそうです。
カウンセラーは、病気による休業や復帰に関するメンタル面からのサポートもおこないます。
そのような場合、うつ病の可能性が推認されれば受診を促し、うつ病であれば、まずはうつ病の治療を勧めることになります。
講師の方は、受診の結果、うつ病ではないが「うつ状態」と診断された方のカウンセリングをされることも多いようです。

私は少し前、インフルエンザに罹患しました。熱はすぐに下がったのですが、2週間ほど喉の痛みに苦しめられ、ほとんど食事ができませんでした。体重も6Kg減少しました。
医者でないものが診断はできませんし、診断するつもりもないのですが、どうやら私はその後「うつ状態」であったように思うのです。
なぜそのように思うかというと、インフルエンザ回復後に読み始めた「認知行動療法実践ガイド」には「エイブ」という男性と「マリア」という女性のが登場して、両者のケースを通じて、カウンセリングの構造や技法等が解説されてゆくのですが、そのエイブの状態や思考が、私のその時の状態と近似していたからです。

また、ベックさんは「うつ病の否定的認知の三徴」という概念を提示しています。
「うつ病の否定的認知の三徴」とは、自分について、他者との関係について、将来についての3つについて否定的に考えるようになった状態を言うそうですが、インフルエンザ後の私は、この状態に近かったようでした。

これらのことを考え合わせるとどうやら「うつ状態」であったように思えるのです。

私の(仮にうつ状態だったとして)うつ状態から回復には、「認知行動療法実践ガイド」に記載されている技法を、自らが実践することも役に立ったのですが、回復のターニングポイントになったのは、15年以上続けている「ヴィパッサナー瞑想」でした。

それは認知行動療法を学びベックさんの認知モデルを知る前の出来事でした。

午後書斎(壁に向かって椅子と机を置いただけですが、妙に落ち着くので「書斎」と言っています)で、仕事をしていた時のことです。

胸のあたりに圧迫感のような、むかむかするような嫌な感じがしました。15年もヴィパッサナー瞑想(このブログではヴィパッサナー瞑想をマインドフルネスとしています。以下同様です。)をやっているので、その時に「受の随観」により「苦」とラベリングしました。

ヴィパッサナー瞑想では、身の随観から始めて、受の随観、心の随観をへて法の随観へと進みます。「苦」は、受の随観(受随観)のラベリングで、体に起こった感覚を「苦」「楽」「不苦不楽」に分類して観ます。

「胸のあたりに圧迫感のような、むかむかするような嫌な感じ」がしたことを認知したので、私は「苦」とラベリングしました。そうするとこの「苦」が、昼食時に見たテレビ番組の内容に触発されて、自分が心の中でつぶやいた「将来についての否定的な予測」によってもたらされたようだと、ごく自然に思い当たりました。

結婚相談所開業直後にインフルエンザにかかり1か月以上何もできなかったこと、これではいけないと思いつつもも、インフルエンザからの回復後も気力がわかず、好転するという兆候もない時でした。(後に知ることとなる)ベックさんの「否定的認知の三徴」の状態のときに、心の中で「将来についての否定的な予測」をつぶやいたわけです。
そして「将来についての否定的な予測」を、「そうと決まったわけではない、挽回できる」と意識的に言い換えたところ、「胸のあたりに圧迫感のような、むかむかするような嫌な感じ」は不思議なくらいすんなりとなくなりました。

この時私が感じたことは「これが四聖諦なのだろうか」でした。

その時の私の四聖諦についての理解は、苦を知り(苦聖諦)、苦の生起の原因(苦集聖諦)、苦の生起の原因を滅すれば苦は消滅する(苦滅聖諦)、これが苦の滅尽に至る道である(苦滅道聖諦)、という程度のものでした。
私はこれを、自分の経験に当てはめて「四聖諦」をかなり自由に理解しました。

  • 苦聖諦:「胸のあたりに圧迫感のような、むかむかするような嫌な感じ」=苦を認識した
  • 苦集聖諦:苦は自分が心の中でつぶやいた「将来についての否定的な予測」によって生じた
  • 苦滅聖諦:「将来についての否定的な予測」を修正=原因を滅したことにより「胸のあたりに圧迫感のような、むかむかするような嫌な感じ」=苦がなくなった
  • 苦滅道聖諦:以上のような方法によって「苦」をなくすことが出来る

そしてここが重要なところなのですが、この体験以降、

  • 自分の気分が下がったことを自ら察知することができるようになった
  • その原因となった「心の中のつぶやき」を特定して修正することが容易にできるようになった
  • さらには、外部の情報に触れたときに、自分の気分が下がるような「受け取り方」をしないように意識してコントロールするようになった
  • その結果、気分が下がることが減少した

四聖諦は、生は苦であるとして、苦の生じる過程を記述した「縁起」と関連付けて説明されるようです(馬場紀寿「初期仏教 釈迦の思想をたどる 岩波新書)が、経典は、今に伝えられる長い時間の中で改変されることもあったようです。経典の解釈を容易にする意図や、理論をより精緻化するためなどの意図があって改変されたこともあったのではないかと思います。
時代に支配的な考えを取り込む意図や他宗と違いを打ち出す意図もあったようようです。

もともと経典は釈迦の没後、釈迦の教えに直に接した人々が、「釈迦から教えを」「私はこのように聞きました」と話し、それを弟子たちが口伝で伝えたものです。釈迦の教えに直に接した人々が存命であれば、改変に対しては一定の抑止となるでしょう。釈迦の教えに直に接した人々がいなくなり、長い時間がたてば、「釈迦から教えを」の部分が意識されなくなり「私はこのように聞きました」だけになってしまえば、ここはこのように補った方が意味がより明確になる、ここはこういう意図で説教されたのだろうからこのように補足した方が良い、と考えて改変された可能性もある、と推測しても私には違和感はありません。
私が、「自分の経験に当てはめて「四聖諦」をかなり自由に理解し」たように、先人もかなり自由に理解したであろうことが推測されるからです。

ひるがえって言えば、仏教はこのような性格をもって展開された宗教運動、とも言えるでしょう。
このように考えると、富永仲基が唱えた「加上の説」には納得性があります。

縁起との関連に触れずに四聖諦を記述している経典もありますので引用します。

『比丘たちよ静居して思索につとめるがよい。静居して思索する比丘はあるがままに了知する。それでは何を了知するのであろうか。
<こは苦なり>と、あるがままに了知するのである。
<こは苦の生起なり>と、あるがままに了知するのである。
<こは苦の滅尽なり>と、あるがままに了知するのである。
<こは苦の滅尽にいたる道なり>と、あるがままに了知するのである。』
増谷文雄 阿含経典 第二巻248ページより抜粋 筑摩書房

この経典で釈迦が言っていることは「静居して思索する」(ヴィパッサナー瞑想と思われます)ことにより、四聖諦を認識できますよ、「静居して思索」することに努めなさい、ということです。

マインドフルネスは、禅の思想によるものと説明されることが多いようですが、仏教の認識論を実践してセラピーやより良い生き方につなげる、という観点から考えれば、基盤となる仏教の認識論はおおむね共通ですから、ヴィパッサナー瞑想を、マインドフルネスとしても支障はないと思っています。

ここでは四聖諦については、ここでは、これ以上立ち入りません。

ここでは、私が「四聖諦」と「かなり自由に理解した」方法によって、身体の感覚にも影響を与えた気分の低下がなくなった、ということをご説明したかったのです。

なぜかというと、私が「かなり自由に理解した」四聖諦は、後に知ることとなる(すでにご説明しましたが)ベックさんの認知モデルと認知行動療法の方法論そのものだったからです。

(2025年1月31日)

「心がくじける」の心理療法的な対処方法

心がくじける原因を、「婚活、やってみたら、自分が想像したようにうまくいかなかった」ということであった場合の、「認知行動療法」的解決策、「論理療法」的解決策を、少し考察してみます。

たとえば結婚相談所に、入会し婚活を始めましたが、お見合いを申し込んでも断られてばかり、やっとお見合いが組めてもピンとくる人に出会えない、嫌になってしまった、心が折れた、ということを想定てみます。

実は、これはご入会時に、ご説明していることなのですが、お見合い申込のお断りは、あなたに対するNGではありません。
お相手側の都合によりお見合いをOKできない、というのが大半です。
お相手側に申込が多数きていて取り次いでも判断しきれない、お見合いが立て込んでいる、交際がスタートしている等、お見合いのお断りは、多くはお相手側のご都合により「お見合いできない」ことによるものです。

それゆえ「10件申し込んで、1件お見合いにつながれば上出来」ということになります。

あなたが、この方ならと決めて1件お見合いを申し込んだとします。
あなたと同一エリアの、同じ年齢層の別の方は30件申し込んだとします。また別の方は40件申し込んだとします。同じことがどんどん繰り返されます。

この結果、あなたがお見合いを申し込んだ方には、あなたのお申込みも含めて、多数のお見合いが申し込まれます。
お相手も時間をかけても判断できないかもしれません。あなたのところに行き着くまでに、お見合いを何件か承諾されるかもしれません。
すでに、例えば何件かのお見合いを承諾していたとすれば、それ以上のお見合いの承諾は一時停止するでしょう。
2か月先でなければお会いできない状況では、すでに承諾しているお見合いを優先して、新規のお見合いは承諾しないでしょう。それが常識的な判断です。

お相手がそのような状況であってもシステム上は、お見合いは申し込むことが出来ます。

言い換えれば、お見合いお断りは、会員数が多く、会員が一生懸命活動すればするほど、お見合いを承諾してもらう確率は下がる、という結婚相談所のシステム上、必然的に生じる「現象」だと言えます。
また、「お見合いの殺到するお相手」という方も事実上存在しますので、そのような方に集中的にお見合いを申し込まれた場合は、さらにお見合いの承諾率は下がります。

お見合いの承諾率は、「あなたの人格とは全く関係なく」決まるのです。

話を戻します。

「お見合いを申し込んでも断られるばかりで、お見合いにつながらない、お見合いできてもピンとくる人に出会えない、嫌になってしまった、心が折れた」ということを想定してみましょう。

結婚相談所に入会され活動をスタートされたときには、希望に胸を膨らませて、何か月か後には自分の希望するようなお相手と交際できている姿を思い描いているでしょう。
結婚したいという希望と、結婚できるという「期待」をもって、結婚相談所に入会されるのですから、婚活が「うまくいく」という見込み、もしくは期待をもつのは、当然のことです。

何か月か後の姿を思い描くときに、たとえば「自分は平均初婚年齢よりも少し上だけれど、十分若いし、婚活まだまだいける」と意識的または無意識的に考えていたとします。
活動を開始して1か月、2か月と経過してゆくのですが、事前に自分が思い描いていたようには進みません。
「お見合いを申し込んでも断られるばかりで、なかなかお見合いにつながらない、お見合いできてもピンとくる人に出会えない」という状態に陥った仮定します。

この時に「自分にとって苦痛」と感じるのは、「お見合いを申し込んでも断られるばかりで、なかなかお見合いにつながらない、お見合いできてもピンとくる人に出会えない」という事実によって、自分が自分に抱いていた「自分は平均初婚年齢よりも少し上だけれど、十分若いし、婚活まだまだいける」という認知の修正を迫られるからではないでしょう?
認知の修正は「自分が思っているほど、自分はいけてなかった」というものになりがちですから、受け入れたくないもの、受け入れることは「苦痛を予想させる」ものになるでしょう。

自分について抱いていたポジティブな認知、イメージについて、修正を迫られることになり、受け入れがたいものになるのであれば「嫌になってしまった、心が折れた」となるのは、かなりの確率で起こりそうなことです。

私は結婚相談所の主宰者なので、当然、婚活にくじけることなく、ご成婚に向かって活動していただきたいと思っています。

そのためには、まずは「嫌になってしまった、心が折れた」とならないように、事前に十分にご説明することが必要かと思います。
事前のご説明はすでに述べました。

その次の策としては、「嫌になってしまった、心が折れた」に対処することになります。

その方法として、すでにご紹介した認知行動療法や論理療法の考え方を使うことができるでしょう。

「自分は平均初婚年齢よりも少し上だけれど、十分若いし、婚活まだまだいける」という認知、イメージが、認知行動療法の「自動思考」であり現実的ではない(非機能的と言います)ものであったからこの自動思考を修正すればよい、または論理療法での「非論理的文章記述=イラッショナル・ビリーフ」だったのだから、「合理的文章記述=ラショナル・ビリーフ」に変えれば苦しまなくなるはず、という考え方も、当然にできます。

平均初婚年齢は、あくまでも平均であり、年齢別婚姻数のピークではないこと(これは誤解されている方が多いでようです)、年齢別婚姻数のピークは、男女とも26歳27歳28歳なので、この年齢以降の婚姻数は減少してゆきます。
結婚をするには決して「楽観できない」年齢層にいることをご理解いただいたうえで、2023年度IBJ成婚者の年齢中央値は、男性38歳、女性34歳ですから、平均初婚年齢以上の年齢の方でも、結婚されている方が多数いらっしゃることをご理解いただき、ご自身に対する概念、イメージを修正したうえで、ご自身の結婚についてのお考え、アピールできるご自身の良いところを再確認してもらい「自動思考」「非論理的文章記述」を修正して、活動再開を支援するのが、カウンセラーとしては取り得る方法、ということになります。

認知の修正を試みるとしても「自分は平均初婚年齢よりも少し上だけれど、十分若いし、婚活まだまだいける」、という自分についての認知を変えることへの抵抗は残るかもしれません。

ではマインドフルネス的に、考えるとどうなるでしょうか?

そもそもマインドフルネスは、他の人の心理を理解したり説明したりする類のものではありません。
自分が、自分の体、体の感覚、心についての感受性を高めてゆき、新しい認識(仏教的に言えば智慧、苦しみから逃れる知見や願いごとをかなえる知見)を得るものです。
そしてそれは自分が、マインドルネスを実践することから得られるものです。つまりは、ご自身でマインドフルネスを実践していただいて、新しい認識を獲得していただく、というのが正当な方法です。

とはいえ、それでは話が進みませんので、多少の無理を承知で話を進めます。
(本日以上)

「心がくじける」にマインドフルネス的に対処する方法

「マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)的に対応する方法」とい言いかたは、昨日もお話しましたが、少し困難があります。
自分自身がやってみて、苦しみから逃れることや願いをかなえる「新しい認知」を得る、そしての「その認知」はあなたが瞑想を通じて得るもの、というのがマインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)だからです。

なので、心がくじけそうなときに「マインドフルネス的に考えると、心がくじけませんよ」というものではなく、マインドフルネスを続けていて『、苦しみから逃れることや願いをかなえる「新しい認知」を得』られると、心がくじけない確率が高まりますよ、その過程はこのようなものですよ、という説明になります。

マインドフルネスには、即効性がありません。しかし一生けん命取り組めば、効果は実感できます。

ですから、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)をやってゆくと、「こういう認知にいたりますよ」(たぶん)という説明になります。

とはいえ、ヴィパッサナー瞑想は、釈迦が悟りに至った瞑想とされ、約2500年間営々と伝えられてきたものなので、先達が書かれた指導書を読んで取り組んでみると、指導書に書かれている通りになってゆきます。

かなりヴィパッサナー瞑想が進んだ状態とはなりますが、「自分は平均初婚年齢よりも少し上だけれど、十分若いし、婚活まだまだいける」と考ること自体が、「妄想」だよね、と考えるようになります。
このように考えるようになると、「お見合いを申し込んでも断られるばかりで、なかなかお見合いにつながらない、お見合いできてもピンとくる人に出会えない」という事実に接して、「うまくいかないなぁ、結婚できない」と考えることも「妄想」、つまり自分が心の中で作り上げた「想像の世界の出来事」であるかもしれいない、と認識するようになることは、ご想像に難くないでしょう。

とはいえ、このような認識に至らない方のうちの一定程度の方は、結婚をあきらめてしまうかもしれません。

あきらめてしまった方は「うまくいかないなぁ、結婚できないかも」という「妄想」を、結婚をあきらめることで「婚活がうまくいかなかった、結婚できなかった」という現実にしてしまっていることになります。

このような考え方は「マインドフルネス認知療法」が創始される契機となった認識でもあります。

当然マイドフルネスに取り組んでいない方でも「うまくいかないなぁ、結婚できない」ではなくて「このままだとうまくゆかないな、活動を見直そう」と考えて再スタートされて、結婚にたどり着く方も当然いらっしゃるでしょう。

自分の頭の中の想像を「妄想」だと認知するに至るには、以下のような経路をたどります。

ヴィパッサナー瞑想では、最初に「身の随観」をします。歩行の瞑想や座る立つという動作について自分の「気づき」=サティについて、「直観的な言葉にして確認」=ラベリングをします。
歩行の瞑想の場合は、「右足上げる」「離れる」「運ぶ」「着く」「圧」などと動きと動きに伴う感覚を「直観的な言葉にして確認」します。当然右足を離す前に左足に体重を移しますからそれもラベリングします。

皆さんが抱く瞑想のイメージに一番近いのが「呼吸を観る」瞑想です。これは座禅のように座って、呼吸による腹のふくらみとへこみを観察して、息を吸うときは腹の動きを「ふくらみふくらみ」とラベリングして確認します。息を吐くときは腹のへこみを「ちじみちじみ」とラベリングして確認します。これを途切れることなく連続的に行います。「ちぢみちぢみ」というのは、観察が深まると体が膨らむこと縮むことが観察できるからです。腹式呼吸をするので、腹が動くのですが、空気が排出されるのは肺なので、腹がうごくだけでなく体が膨らみ、縮みします。

「呼吸を観る」瞑想は、呼吸を観ることを通じて、集中力と観察力を養う(感受性を強化する)ために行いますが、通常は、最初から腹の動きに集中できません。
いろいろな考えが浮かんできて、「ちぢみちぢみ」「ふくらみふくらみ」がどこかへ行ってしまって、いろいろな考えに注意が向いてしまい、そちらの方を考えてしまいます。
その様な時に「妄想」とラベリングして(これが難しいのですが)、腹の動きの観察とラベリング「ちぢみちぢみ」「ふくらみふくらみ」に戻ります。
この「注意がそれたことに気付いて腹の動きに引き戻す」ということが、この瞑想ではとても大事です。
最初から「妄想」を生じないようにするということは、ほとんどの人にとって不可能です。最初は「注意がそれたことに気付いて腹の動きに引き戻す」ことを、繰り返し繰り返し行うことによって、「今ここ」への集中力を養います。

「妄想」とラベリングするのは、呼吸の瞑想中に、頭に浮かぶのは「いまここにないこと」だからです。

瞑想中に、音が聞こえた場合は、音は「いまここにないこと」ではありませんから、「音」とラベリングした上で、腹の動きの観察とラベリング「ちぢみちぢみ」「ふくらみふくらみ」に戻り、音に反応して、考えるつづけることを意図的に遮断します。瞑想の方法論としてはこのようになりますが、たとえば地震がおこって物が落ちる音だった等の場合は、身の安全を図ってください。
瞑想中に、体に痛みやかゆみを感じたら、「痛み」「かゆみ」とラベリングします。
「痛い」「かゆい」ではありません。後でご説明するように仏教の認知論は「無我」なので「私は痛いと感じる、痒いと感じる」のではなく、「痛みかゆみの感覚が生じた」と考えるからです。
この場合は、「痛み」「かゆみ」を観続けて、「痛み」「かゆみ」が消えたら、腹の動きの観察とラベリング「ちぢみちぢみ」「ふくらみふくらみ」に戻ります。

このように説明すると「妄想」の性格がよりご理解いただけると思います。

そして、呼吸の瞑想を継続して体の動き、痛み、かゆみという体の感覚の観察を通じて集中力を養いながら、「妄想」に気付き「妄想」と判断することによって、(多少の時間を要しますが)瞑想をしていないときでも、自分の心に浮かぶ事柄について「これ妄想かな」と考えて、今ここに無いしことだし考えても仕方ないことだし、事実とはいいきれないよね、だから「これ妄想だよね」という判断をするようになります。
このような判断をすると、「後悔」は「過去の出来事にもとづくことだけど、今ここに無いしことだし考えてもどうにもならないこと」だから妄想だよねということになります。
「後悔」は「悪作(おさ)」といって「智慧=あなたが苦しまないための新しい認識、願いをかなえるための新しい認識」に到達することを妨げるものの1つとされています。

そして自分の心に起こるネガティブな想念・思考も、ポジティブな想念・思考も、双方「妄想かもしれない、注意しよう」と考えるようになります。

その様な考え方ができるようになれば、『「自分は平均初婚年齢よりも少し上だけれど、十分若いし、婚活まだまだいける」と考えたこと』が、『自分の願望であって「妄想」だよね』『「うまくいかないなぁ、結婚できない」と考えたのも、「このままじゃ結婚にたどり着くのは厳しそうだけど、結婚できないと決まったわけではない」から「うまくいかないなぁ、結婚できない」とうのは「妄想」だよね』と考えることができるようになってきます。
願望には、貪瞋痴の貪(渇愛)がついて回ります。このお話はあとで少しします。

そうなれば「嫌になってしまった、心が折れた」となる確率は減少するでしょう。

加えて仏教の認知論は、「私」というものはないと考えます。「無我の境地」ではなくて、そものも私はないから「無我」です。
あるのは、「視覚・聴覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚・意識」であり、これらの束を「私」と勘違いしている、と説きます。

この前提に立てば、悩み苦しんでいる「自分自身」が想像の産物、誤解の産物だらから、悩み苦しむのも想像の産物だよね、ということになります、仏教の認識論上は。

「悩み苦しむのも想像の産物だよね」というところまで行きついてしまうと、ベックさんの「認知モデル」も当然「想像の産物」だよね、とうことになるであろうことは、想像に難くありません。
このように考えるとアルボムッレ・スマナサーラ先生(スリランカテーラワーダ仏教長老)が、『「ヴィパッサナー瞑想」は、涅槃に至るほどすごく効き目がある』と言われていたことが思い起こされます(「現代人のための瞑想法 役に立つ初期仏教講和4」 サンガ新書)。ヴィパッサナー瞑想は、かなり強力です。

ただし、自分自身が「悩み苦しむのも想像の産物だよね」という認識に到達することはOKですが、あなたも「無我」だから、他の人に悩み苦しむのはおかしい、悩み苦しむはずはない、と指摘することは、現代の人間観からは歓迎されませんし、強く主張すれば人権の観点からも許容されません。
自分について、自分への観察、他者の観察から、「自分は無我である」という認識にたどりついた人(たぶん解脱しているでしょう)にとっては「無我」が当然となります。

だからマインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)は、『「その認知」はあなたが瞑想を通じて得るもの』という説明になるのです。解脱に至らずとも、です。

上記のように自分の考えたこと(すべてが妄想だというわけはない)が「これ妄想」だよね、という考えに至ったとしたら、あなたは「あなたが苦しまない新しい認知=智慧」を、大きい小さいは別として獲得したことになります。

そしてこの「あなたが苦しまない新しい認知=智慧」の獲得ができたとすれば、瞑想における観察力と集中力が高まっており、人を苦しめ、また判断を誤らせる「貪瞋痴」と言われる「貪り(渇愛)」、「怒り(不満)」、「無知(誤解)」を観ることも可能な段階であると考えられます。観ること(気づくこと)が出来ればそれを離れることもできます。

人間は進化の過程で本能的な脳の働きに加えて理性的な働きを高度化してきました。理性的な働きを高度化してきたのですが、本能的な働きがなくなったわけではなく、理性的な働きと本能的な働きが混合しているのが人間の脳の働きのように思います。
理性的な働きと、「貪り(渇愛)」、「怒り(不満)」、「無知(誤解)」は絡まり合って思考を形成し人を動かしていると、正論を述べながら自分の欲求を満たす論理を展開すること、も当然できます。ヴィパッサナー瞑想をしていると、このように強く感じます。

少し話を戻して、瞑想について説明を継続します。
歩行の瞑想のところで『動きと動きに伴う感覚を「直観的な言葉にして確認」』すると書きました。
かなり大雑把な説明になりますが、仏教の認知論では、外部からの刺激が、視覚・聴覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚・意識に到達したとき(触といいます)、受という反応がおこり、続いて想(知覚)、ついて尋(絞り込み)という働きが起こると考えます。
「直観的な言葉にして確認」すると説明したのは「受」の反応が起こった段階でラベリングするのが理想的だとされているからです。「想」の段階でのラベリングもOKです。

このラベリングは、日常的にもできますし、日常的に行うことが推奨されています。

私の体験で、具体的に説明します。
番号札を渡され順番待ちをしていました。私の番号は「112番」でした。
自分の順番を待っている間、本を読んでいるので掲示板の数字が「112番」になっても気が付きませんでした。そこでカウンターの中の人は「112番の番号札をお持ちの方」と呼びかけます。
その時の私のラベリングは「音」でした。
なぜ「音」なのかというと、「ひゃ」という音が聞こえたこと対して反応したからです。これが「受」へのラベリングになります。
通常はこのような反応はしませんが、順番を待っているという意識が、集中力を高めていたのでしょう。
「ひゃくじゅうにばん」という声を聴いて「112番、私の順番だ」というのは「尋」段階です。この段階でのラベリングはあまり効果のない(あなたの認知に変化をもたらさない)ものになります。

なぜ、「受」もしくは「想」に対するラベリングが推奨されるかというと、「受」「想」の段階で、「受」「想」の先にある「妄想」へとつながる心の働きを遮断するためです。

「何を言っているのかわからない、何のために必要なのかわからない」とお感じの方、まったくもってその通りです。

ご理解いただくには、さらなる説明が必要です。

呼吸の瞑想を続けて、集中力が高まり呼吸による体の動きに意識が集中し、「外界の音が聞こえない感覚」(あくまでも感覚です)を経験します。

その段階からさらに先に行くと、思考によって感情が生起すると、心が静かにならないことが理解されます。
心が静かにならないことが理解されると「思考しないことで感情が生起しない」状態を経験することが出来ます。とても気持ちの良い感覚ですが、当然これは解脱ではありません(たぶん)。
心に妄想(思考)が生じず心が静まっているだけの状態です。しばらくすればこの状態は消えてしまいます。

感情が生起しないで心が落ち着くことを体験すると、次には思考しない状態になったときに、心が落ち着くことが理解でき、意図的に思考しない状態に入ることを意図して、それが出来るようになります。
たぶんこれが「楽」と言われる状態です。文字通り、負担になる「感情」や「思考」がなくて「楽」に感じる状況です。

瞑想中だけでなく日常的にこのような「楽」の状態をつくりだすことが、解脱に至る過程で必要であると考えるのであれば、日常的に『「受」の段階で、「想」と「想」の先にある「妄想」へとつながる心の働きを遮断する』ことを行うことが必要になります。

ここからは、「しかしながら」という話になります。

「心がくじける」ことがないように、というのがこのブログの目的であって、「解脱」が目的ではありません。
そもそも「解脱」してしまったら(簡単に解脱できないと思いますが)「結婚したい」という意図すらなくなってしまうでしょう。

本末転倒です。

そうすると、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想=仏教に認知論を活用した瞑想方法)を活用して、婚活で「心がくじけ」ないようにするにはどうしたらよいのか?ということを考えてゆく必要があります。

稿を分けてお話したいと思います。

あなたが幸せでありますように
あなたの悩み苦しみがなくなりますよう
あなたの願いごとがかなえられますように

(本日のお話は以上です)

人間は「考えると体が反応する」

前回『思考によって感情が生起すると、心が静かにならないことが理解されます。心が静かにならないことが理解されると「思考しないことで感情が生起しない」状態を経験することが出来ます。』とお話したのですが、大事なことをお伝えするのが漏れていました。

それは『考えると体が反応する』ということです。

『「受」もしくは「想」に対するラベリングが推奨されるかというと、「受」「想」の段階で、「受」「想」の先にある「妄想」へとつながる心の働きを遮断するためです。』ともお話しました。

『「受」「想」の先にある「妄想」へとつながる心の働きを遮断する』と当然、体の反応も停止します。反応が停止するのですから、体も心も、穏やでにいることが出来ます。

逆に言えば、体の反応を読み取ることが出来れば、自分が考えていることを知る「手掛かり」となるということです。
だから「受の随観」により体の「苦=不快感」「楽=快感」「不苦不楽=不快感でも快感でもない状態」を探ることには大きな意味があります。

受の随感により、「苦=不快感」を観る(気付く)ことが出来れば、「苦=不快感」の原因を探し「苦=不快感」の原因をなくすことが出来ます。
「苦=不快感」の原因をなくすことが出来れば、体の反応はなくなります。
体の反応がなくなればさわやかでいられます。

この手順は、すでに私の経験としてお話した「四聖諦」です。

「そんなに簡単に「苦=不快感」はなくならないでしょ」と言われるかもしれません。

でも、怪我をしている、疾患がある等でない場合の「苦=不快感」は自分の心に浮かんだ「想念・思考・イメージ」「=妄想」から生じるということは、ベックさんの「認知モデル」を思い起こしていただければ、ご理解いただけると思います。

「くじけない心づくり」のスタートは、「苦=不快感」を観る(気付く)ことから始まるように思います。「苦=不快感」に気付くことがなければ、「苦=不快感」の原因を探すことにはせず、「苦=不快感」は体に記憶として残るでしょう。記憶として残るものは繰り返されるでしょう。

以上の考察を、ベックさんの認知モデル当てはめてみたらどうでしょうか?

ベックさんの『認知モデルとは、人の感情、行動、身体は、出来事に対するその人の理解の仕方によって影響を受ける、という仮説である(出来事には、「試験に落ちる」といった外的なものもあれば、「身体の苦痛な症状」といった内的なもののある)。つまり、人の感じ方や行動を決定するのは、状況それ自体ではなく、状況に対してその人がどう解釈するか、ということである(Beck1964;Ellis1962)』

『人の感情、行動、身体は、出来事に対するその人の理解の仕方によって影響を受ける』ことは、「受の随観」によって十分に理解できます。

そのうえでベックさんの『「認知モデル(cognitive model)」が提唱するのは、端的にいうと、すべての心理学的問題の背景には非機能的な思考が共通してみられる(そしてそのような思考がクライアントの気分や行動に影響を及ぼす)ということである。自らの思考をより現実的かつ適応的に検討することが出来るようになれば、その人のネガティブな感情や行動が改善されるだろう。』

ベックさんの認知モデルで考えれば、受の随観で「苦=不快感」を認知したならば、「非機能的な思考」=「ネガティブな、無意識的に行われる思考、イメージ」を探して、機能的=現実的なものに修正すればよいわけです。
受の随観ができるようになれば、体に対する感受性(集中力、観察力)は高まっていますので、『「ネガティブな、無意識的に行われる思考、イメージ」を探して、機能的=現実的なものに修正すること』はそう難しいことではありません。

ちなみに、仏教の認識論は、「思考は生起しては消えてゆく」です。それゆえ「生起した思考は生起したとだけ知り、それに反応しないこと」というのが巷間言われる「マインドフルネス」が「フォーカス」しているところのようです。

大事なことは「生起している」ことを「認識する=観る」ことです。「生起している」ことを「認識する=観る」ことによって、「生起している」ものはなくなります。

心に「生起している」ものは、メッセージでありメッセンジャーだと考えられます。「生起している」ことを「認識する=観る」ことで、メッセンジャーは役割を果たして消えてゆきます。
ヴィパッサナー瞑想からも、このことは経験できます。
既読のメールは削除できますが、あることを認識していないメールは、読まれずそのまま残されます。

ヴィパッサナー瞑想で『「受」「想」の段階で、「受」「想」の先にある「妄想」へとつながる心の働きを遮断するため』というのは、この認識論に基づき、「生起している」「受」「想」を認識し、そこから先の思考=妄想を生じさせないようにするためです。

仏教の認識論と、ベックさんの「認知モデル」はとても親近性があります。

「認知療法の原理と実践をマインドフルネスに統合」した「マインドフルネス認知療法」を創始したメンバーの1人、J・ティーズデール(文中の「Jhon)は、仏教の認識論との出会いをこのように記述しています。

「Johnは、Sumedhoが述べた仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。また仏教のマインドフルネス瞑想の中核が、思考として(つまり、「真実」や「私」としてではなく、精神的事象として)思考と関係していくことの習得を含むことも明白であった。人はこうすることで、自分の行動をコントロールしたり、不幸な心の状態を作り上げる役に立たない思考パターンの影響から自身を解放できるのだ。」「マインドフルネス認知療法原著第2版うつのための基礎と実践」(M・シーゲル、M・ウィリアムズ、J・ティーズデール著 越川房子訳 北大路書房)

ヴィパッサナー瞑想をヴィパッサナー瞑想として行うことも、メンタルヘルスに効果がありますが、ヴィパッサナー瞑想は解脱をゴールにして解脱に到達するための「方法論」であるため、「世俗的な」なメリットを得るためには、禅の考え方を活用した「マインドフルネス」と同様、一工夫する必要があると考えています。
(2025年2月6日(木))

婚活への「マインドフルネス」活用方法

「ヴィパッサナー瞑想」に基づき感受性を高めること、「ベックさんの認知モデル」をより効果的に活用すること、を手段として、「くじけない心」=「心をくじく認知」を排除する、ということがが、ゴールになります。

手順のイメージは、以下のようなものになりそうです。

まず初めに、ベックさんの「認知モデル」を理解していただきます。

認知行動療法では「心理教育」、認知モデルに対して理解を深めることを重視しているので、それに倣います。

再三の掲出になりますが、ベックさんの「認知モデル」(概要)は、
『「認知モデル(cognitive model)」が提唱するのは、端的にいうと、すべての心理学的問題の背景には非機能的な思考が共通してみられる(そしてそのような思考がクライアントの気分や行動に影響を及ぼす)ということである。自らの思考をより現実的かつ適応的に検討することが出来るようになれば、その人のネガティブな感情や行動が改善されるだろう。』

『認知行動療法は認知モデル(cognitiv model)に基づく。認知モデルとは、人の感情、行動、身体は、出来事に対するその人の理解の仕方によって影響を受ける、という仮説である(出来事には、「試験に落ちる」といった外的なものもあれば、「身体の苦痛な症状」といった内的なもののある)。つまり、人の感じ方や行動を決定するのは、状況それ自体ではなく、状況に対してその人がどう解釈するか、ということである(Beck1964;Ellis1962)』

さらにベックさんの「うつの否定的認知の3徴」「自分について、他者との関係について、将来についての3つについて否定的に考える」についても理解していただきます。

これによって、
「婚活している自分についての否定的に考えること」
「婚活している自分とお相手との関係について否定的に考えること」
「婚活している自分の将来について否定的に考えること」 
を、見つけ出し修正することが、「心をくじく認知」をはいじょするために必要であることをご理解いただきます。

仮に上記の3つを「婚活についての否定的認知」としておきます。

「婚活についての否定的認知」を特定し修正するために、ヴィパッサナー瞑想により、まず「自分の体の動きについての感受性」を高めます。
「自分の体の動きについての感受性」を高めると、次第に「自分の体の感覚についての感受性」が高まります。

「体の感覚についての感受性」が高まると、「婚活についての否定的認知」が生じたときに、「体の感覚」もしくは「感覚的」に「苦=不快感」を認知することが出来ます。

引き続き「自分の体の動きについての感受性」を高めます。それによって「自分の心についての感受性」が高まると、自分がどのような婚活についての否定的認知」をしたのかが特定できるようになります。

加えて「婚活についての否定的認知チェックリスト」のようなものを作り(検討中)、一日を振り返ってみることも効果的なように思います。

「婚活についての否定的認知」が特定出来たら、「婚活についての否定的認知」を、「機能的なもの=現実的なもの=自分のとって有益な考え方」へと修正してゆきます。

修正の判断基準は、「機能的なもの=現実的なもの=自分のとって有益な考え方」となりますが、ここでは仏教の認識論=マインドフルネスの考え方を、2つ援用します。

1つ目は「八正道」のうちの最初の3つ、「正見」「正思」「正語」です。
2つ目は「中道」、両極端に走ってはならない、という考え方です。

2つの考え方を組み合わせると、「両極端に走らない、物事の見方」「両極端に走らない、自分のとらえ方感じ方」「両極端に走らない、適切な言葉による文章記述や発言」という判断基準ができます。

これらの判断基準は、ヴィパッサナー瞑想の進展に従って、イメージがわくようになってきますし、これらが大事であることも自然と理解が進みます。
とはいえ「両極端に走らない、物事の見方」「両極端に走らない、自分のとらえ方感じ方」「両極端に走らない、適切な言葉による文章記述や発言」はとても大事なように思いますので、項目を改めてお話したいと思います。

釈迦は、答えられない質問には「無言をつらぬく」つまり答えないという方法を取りました。
これに範を取れば「私は、希望する条件のお相手と結婚できますか?」という質問には「無言をつらぬく」ことによって回答するのが良いことになります。
「結婚できます」とも言えませんし、「結婚できない」とも言えません。そのようにご自身でも考えてください。これが「正思」です。「「正思」を「適切に言葉にして」「自分に語り掛ける」のが「正語」と言えます。

「私は、希望する条件のお相手と結婚できますか?」答えらえない問題に、答えを出せば、それはいずれにしても、「両極端に走らない、物事の見方」「両極端に走らない、自分のとらえ方感じ方」「両極端に走らない、適切な言葉による文章記述や発言」とはなりません。「わからない問題はわからないまま」として、自分のこれから取るべき道を決めることになります。

「結婚できるかどうかわからない」そのうえで、「結婚をあきらめるか」「成婚に至る確率を高める行動をとって婚活にとりくむか」のどちらか、もしくは「ちょっと様子を見よう、休養しよう」という方策をとってゆくしかありません。

それでも人は答えを求めます。

そこには「結婚したいが、難しいなら仕事に力を注ぎたい、結婚できないと考えられる理由が欲しい」「結婚したいが、時間と労力、お金をかけて結婚できなかったら嫌だ、あきらめる理由があれば婚活止められる」という気持ちがあるかもしれません。

ヴィパッサナー瞑想では、そのような考え方があっても、それらの考えを一切否定せず、そこにあることを「認識」します。

そこにあることを「認識」することによって、「結婚したいが、難しいなら仕事に力を注ぎたい、結婚できないと考えられる理由が欲しい」「結婚したいが、時間と労力、お金をかけて結婚できなかったら嫌だ、あきらめる理由があれば婚活止められる」という心からのメッセージは役割を終え、消えてゆき、あなたの心は負担から解放されます。

そこから先は、あなたの意思で決めてください。心からのメッセージを受け取ったあなたは決めることが出来るはずです。



あなたが幸せでありますよう
あなたの悩み苦しみがなくなりますように
あなたの願いごとがかなえられますように

2025年2月7日(金)

「正見・正思・正語」とは?

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