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マインドフルネスとは?(1)

「理解して」行った方が効果的

先日、たまたま友人と話していたら、マインドフルネスをやっているとのことでした。

仕事でかなり大変な時期があって、その時にストレス対策として勧められ取り組むようになったそうです。これは良いと考えて、自分だけでなく職場でも展開したいと考えているそうですが、展開のしかたで困難を感じている、とのことでした。

マインドフルネスについて、あれやこれや自分の考えをなどを話しましたところ、初めて聞く話もあったようで、もっと勉強したいので本を紹介して欲しいと言われ何冊か紹介しました。

推測ですが「マインドフルネス」を「マインドフルネスのやり方」としてだけ教えてもらって始めたようです。
そのため「マインドフルネスって何?」「何故マインドフルネスなんてやるの?」という部分を説明するのに難儀していたようです。

マインドフルネスは、トレーニングのようなものなので、理解してもやらなければ何の効果もないので、「やってみる」ことが大事です。

後にご案内するマインドフルネスストレス低減法の創始者J.カバットジンも、マインドフルネス認知療法も「継続することの大切さ」を強調しています。

やっていることの「意味」がわからないことや、すぐに「効果」が実感できないことから、「やっても意味がない」と判断してやめてしまう、ということがあるようです。
やめずに続けた人には効果が表れます。

やってみることが大事ではあるのですが「何が何だかわからないがやってみる」よりは、ある程度「どのようなことをするのか」、「それをするとどのような効果が期待できるのか」を、納得はできずも、説明は受けたうえで「それならばやってみようか」ということでやってみることで、継続する動機にもなるでしょうし、より効果が実感できるように思います。

近代教育は「言葉」による概念的な理解を促進し、「言葉」による学習到達度の確認により、より到達度が高いと評価されることを良しとしてきたように感じます。

言葉(概念)による評価は、良い評価もあれば悪い評価もあります。そして言葉(概念)による自己評価や自己認知が自分が求めるものでない場合や、新たな経験と統合できない場合などには、心理的な苦痛を起こすことにもなります。

マインドフルネスはその様な「概念による理解」とは別の、自らの体験により自分自身についての知=「智慧」を得るものではあるのですが、入り口としては概念理解もあってよいかと思います。

筏の譬えがあります。川を渡るために筏(概念理解)を使っても、川を渡り切った(智慧を得た)後に筏(概念理解)を担いでゆく必要はありません。

そもそも釈迦は、自分自身と法(釈迦が語った人間の認識方法=仏教の認識論)をよりどころとしなさい、と言われいます。釈迦の説くところに従えば、自分の苦しみに対処するには、自分でやってみて、自分で知(もしくは智)を得るしかないことになります。

しかし、そこには法というガイド役がいますよ、法を頼りにして自分で探求しなさい、と釈迦は言わていることになります。(阿含経典第3巻「病」 増谷文雄 筑摩書房)

「何が何だかわからないけどやってみる」もありですが、「なるほどそういうことならやってみよう」の方がいいのではないかと思うのです。

さらに先に話を勧めるなら、「法」を参照したほうがマインドフルネスは、より進むのではないかと考えています。

涅槃に至ることを目指すのであれば、「法」の参照は必須となるでしょうが、涅槃を目指すのではないマインドフルネスでは、法を参照せずとも相応の効果は出るでしょう。

私は、すでに「法」を参照したマインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)に取り組んできているので、「法」を参照しないマインドフルネスを実践することは、もはやできません。

そこで「法」の参照、という観点も持ちつつマインドフルネスについて説明してゆきたいと思います。

アメリカ由来の「マインドフルネス」

「マインドフルネス」というように、もともとはアメリカで創始され輸入されたものです。

代表的もしくは広く知られているものに「マインドフルネスストレス低減法」(MBSR)があります。

1979年に、マサチューセッツ大学メディカルセンターのストレスクリニックで、8週間の「ストレス対処およびリラクセーション・プログラム」(SR&RP)が開始されました。

「ストレス対処およびリラクセーション・プログラム」は、J.カバットジンが考案し指導しました。カバットジンは、1960年代初期に、鈴木大拙によって禅を知り、仏教由来の瞑想に取り組みました。

『ストレスクリニックでの患者たちが学んでいる「注意を集中する技術」を使った自己管理トレーニングを自分もやってみたい、という問い合わせが寄せられ』たことから、カバットジンは、1990年に「マインドフルネス瞑想法」を出版ました。(以上「マインドフルネスストレス低減法」北大路書房より)。マインドフルネスの意味は「注意集中」です。

この「マインドフルネス瞑想法」が「マインドフルネスストレス低減法」MBSRとして、世に送り出されたようです。

「マインドフルネスストレス低減法」を読んでみると、実践方法やその効果の現れ方や留意点などは、私がヴィパッサナー瞑想から体験したことと合致しており納得性が高いものでした。禅やヨガ、気功法と思われる自身の体験をしっかりと踏まえつつも、仏教色を出さない、プログラム受講者が受け入れやすく、かつわかりやすい説明がなされています。

カバットジンは、仏教の認識論(私の用語です)である、貪瞋痴、四念処、楽・苦・不苦不楽、五蘊(色受想行識)、出入息観などを、これら仏教の言葉を使うことなく、仏教瞑想の効果をわかりやすく説いています。「マインドフルネスストレス低減法」は、仏教色を出していませんが、内容は、仏教の「法」に基づく考え方を、アメリカ人のメンタリティに合わせて説いたもの、と理解してもよいように思います。
MSBRは、その内容から『Buddhism Based Exercise for Stress Reduction』といってもよいものだと思います。

「マインドフルネスストレス低減法」で行うエクササイズや考え方は、阿含経の「念身経」「治意経」「六六経」等に説かれています。釈迦は「涅槃」に至る修行法として、「マインドフルネスストレス低減法」で行うエクササイズを説いていたことになります。

誤解なさらないでください。カバットジンがこれらを基に「マインドフルネスストレス低減法」を作ったと言っているわけではありません。カバットジンが取り組んだ禅により、カバットジンはこれらのお経の方法論とその効果を自ら体現し、その経験に基づいて「マインドフルネスストレス低減法」を考案したのだろう、と私は感じています。

カバットジンの瞑想体験の深さ、確からしさを感じます。

禅宗は不立文字、言葉によらない方法によって神髄を伝えると言われてきました。

近代教育は、「言葉=概念」によって教育し、「言葉=概念」によって学習の到達度合いを測ってきました。それゆえ「言葉=概念」によって教えられることを理解して、「言葉=概念」による学習到達度の確認により、より到達度が高いと評価された人が優秀とされてきました。

当然そこでは、自らの「体」「体験」を通じて獲得もしくは体現する「知」もしくは「智」は目的とはされていません。

『「言葉=概念」によって教えられること』ではない『自らの「体」「体験」を通じて獲得もしくは体現する「知」もしくは「智」』は、評価の対象にはなりません。一般的に人は、他の人から良く評価されることを望みますから、自らの状況を「言葉=概念」によってとらえるようになるのは必然のように思います。

概念的に理解することが、経験的に「適切な認識」だと考えるようになります。

疼痛等の慢性疾患に苦しむ方々が、自らの状況を「言葉=概念」によってとらえて、疼痛とは別のストレスを生みだしている、ということも考えられうることです。

仏教の認識論は、自らが感じる感覚(受)と、それに基づいて生み出される理解や反応、感情、認識は別の機能であると考えます。日常的にはその様な認識をしておらず「体」の感覚を観ることや、感覚を観る「体験」をしていませんから、「言葉=概念」で認識していることがわからないのです。

カバットジンの「マインドフルネスストレス低減法」は、不立文字と言われるもの、実践、体験してはじめて理解できる「知」もしくは「智」に到達する方法を、カバットジンの実践と経験に基づき「言葉」で、説明した優れた手引書であるように思います。

とはいえ、本を読んだだけで自ら実践しなければ効果を得ることはもちろんのこと、マインドフルネスを理解することもできません。

日本の研究者も「マインドフルネス」の出現を予感

1967年に発行された中央公論社の世界の名著「大乗仏典」の付録で、長尾雅人先生はこのように言っています。

「たとえばアメリカにおける禅ブームというもの、あれはブームでも何でもない(中略)、ペーパーバックの本屋を見ると、禅の本が非常に多い。鈴木大拙さんのものももちろんあるが、アメリカ人その他の書いたものがたくさん出ている。これらのものがアメリカ人の心にいろいろなものを植え付けているのですよ。それは宗門とか教団とかという形とはちがうが、しかしかなりの影響力を持ってくると思いますね。」

マインドフルネスの出現、マインドフルネスブーム(と言っていいと思います)は、長尾先生の言うとおりになってように感じます。

ここで私が重要だと思う点は、「それは宗門とか教団とかという形とはちがう」と言われている点です。

禅の盛んな日本でなぜ、カバットジンのような仕事がなされなかったのだろうかと考えると、日本の禅が宗門、教団によって担われ、宗門、教団の枠を超える広がりにはならなかったから、ということに理由が求められるでしょう。

宗門、教団が「信仰」を核とするのであれば、信仰は「教えを守る」という行動、指向になりがちですから、宗門、教団の枠を超える広がりにはなりにくいと思います。

加えて、どのような組織集団であっても、いったん組織集団が成立すると、組織集団の維持拡大は至上命題もしくは上位の命題になってきますので、「信仰」の拡大による組織集団の維持拡大は至上命題もしくは上位の課題となり、「信仰」の拡大につながらない行為は、取り組む必要がない、と判断されるでしょう。

カバットジンは、鈴木大拙の著作を通じて、禅を知り、その後の自らの瞑想体験を経て「ストレス対処およびリラクセーション・プログラム」を作ったようです。

アメリカはキリスト教文化圏です。

キリスト教文化圏(信仰は自分自身の神との契約、コミットメント)であること、家族制度は「絶対核家族」社会、個我の意識が強固で自らの意思や価値観を持つことが当然であり、自らの意思や価値観に基づく生き方が良いとされる社会(と仮定)であるがゆえに、仏教の宗門、教団色を出さずに(そもそもカバットジンが学んだ禅には、宗門、教団色はなかったのかもしれません)、禅に基づく自己の瞑想体験を駆使して、アメリカ人が受容しやすい形で「ストレス対処およびリラクセーション・プログラム」を世に送り出したように思います。

「ストレス対処およびリラクセーション・プログラム」は、疼痛などの慢性疾患に苦しむ人々の精神的な苦痛、つまり絶望感や孤立感、恐怖等のストレスを低減し、さらにはストレスの低減を通じて治癒力を高め、症状の改善につながる、というところからスタートしたようです。

「注意を集中する技術」によって涵養した集中力と洞察力によって、今の自分に注意を集中することで、生じたものは生じたと認識して(仏教の中核的な認識論です)、それを受け入れること、外部の価値判断や自分の意識による判断をしないこと(アメリカ人にとって新鮮だったのでしょう)、これらを地道に継続することによって、身体的な苦痛を自らの一部として受け入れることが出来るようになり、それによって精神的な苦痛(ストレス)を低減し、さらには治癒力を高めるプログラム、と理解してよさそうです。

「ストレス対処およびリラクセーション・プログラム」SR&RPによる(私が理解した)「認知の変容のプロセス」を示すと、以下のようになりそうです。

身体的な苦痛(慢性的な痛み等)の拒絶 = 心理的な苦痛(絶望感、孤独感、恐怖等)
                ↓
SR&RPによる集中力と洞察力の涵養、洞察力によって現在に集中し、生じた痛み等を受け入れる
                ↓
身体的な苦痛(慢性的な痛み等)の受容 ≠ 心理的な苦痛(絶望感、孤独感、恐怖等)
                ↓
身体的な苦痛(慢性的な痛み等)の受容 ⇒ 生きる希望はなくならないし、無力でも孤独でもない
                ↓
身体的な苦痛(慢性的な痛み等)の受容 ⇒ (苦痛の拒絶に費やされているエネルギーをセーブし)治癒力を高める

「マインドフルネス」研究が拡大

カバットジンの方法論に触発され、マインドフルネスの効果性を広く知らしめることとなった「マインドフルネス認知療法」の創始者の一人である J.ティーズデールは、仏教思想に触れた際に下記のように述べています。

「仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた。両方のアプローチが、私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教の分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。」(「マインドフルネス認知療法」原著第2版 北大路書房)

そしてティーズディールたちは、MBSRを基に「認知療法の実践と原理をマインドフルネスの中に統合」した「マインドフルネス認知療法」を創始しました。(前掲書)

そして、これを機に心理療法において「マインドフルネス」の研究が飛躍的に増大することになりました。

認知行動療法は第三世代が台頭しており、その特徴は、不適切な認知や感情自体を直接的に変えるのではなく、それらの体験との付き合い方に焦点をあてる」(産業カウンセラー養成講座テキスト)とされています。

ティーズディールたちは、上掲書の中でこのように言っています。

「認知療法では思考内容を変えることを明らかに強調していたが(中略)、ネガティブな思考が発生するときにそれを繰り返し特定し、その内容の正確性を評価するために距離をとって冷静に見た結果(中略)、思考を必然に真実である、あるいは自己の一側面であるとみなすよりもむしろ、ネガティブな思考と感情は必ずしも現実の妥当な反映でも自己の中心的側面でもなく、それらを心の中を通過する出来事として観られるような視点の転換をしていたのである。」

ティーズディールらのマインドフルネスとの出会いは、認知行動療法のあり方に大きな影響を与えたようです。

上記で示したMBSRによる「認知の変容のプロセス」を、ティーズディールの言葉に補足して説明すると以下のように言えるように思います。

『私たちを不幸にする(ストレスを与える)のは(慢性的な痛み等の)経験そのものではなく、(仏教の分析では)私たちの(慢性的な痛み等の)経験との関係または(Beckの分析では)私たちの(慢性的な痛み等の)経験の解釈であることを強調していた。」

マインドフルネス・ストレス低減法が目指す「心理的な苦痛、つまり絶望感や孤立感、恐怖等のストレスを低減し、またストレス低減を通じて症状の改善を目ざす」方法は、それによって「豊かに人生を送る」、いいかえれば「生活の質:Quality Of Life」向上を目指すものととらえてよいと思います。

また、応用プログラムの中で、ストレスとともに敵意が減少したことも報告されています。仏教の認識論では「敵意の減少」という考え方はありませんが、仏教瞑想により当然にもたらされる効果であり利用可能なリソースだと考えています。

根本的に目指すところが違う

私がやってきた瞑想は、ヴィパッサナー瞑想の、主に座ってする瞑想です。

マインドフルネスは、ヴィパッサナー瞑想の方法論も参照しているようでもありますが、マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想は、根本的に目指すところが違うようです。

ヴィパッサナー瞑想の、座ってする瞑想は、呼吸による体の動き、主として腹の動きを観てそれを言葉にして確認し続けます。退屈な作業です。退屈なので注意の集中(マインドフルネスの意味です)が、すぐに「今ここで起こっていること=体のうごきとそれを感じること」から、昨日のことや将来のこと等「いまここに無いこと」へと向かいます。「今ここに無いこと」に注意の集中が向かったことに気付く(サティ)と、「妄想」と言葉で確認(ラベリング)して「今ここで起こっていること=体の動きとそれを感じること」へ注意の集中を戻します。

このようなことを続けていると、「今ここに起こっていること」と「妄想」を弁別しようとするようになるのは当然の成り行きです。その結果として自分の頭に去来することの大半は「今ここに無いこと」=「妄想」=「自分が作り出したこと」なのではないかという「認知」に到達します。

その様な「認知」のもとでは、うまくゆきそうだと考えても、それは将来に対する自分の希望(欲)を反映したものであって、現実を妥当に反映したものなのではないだろう、うまくゆかないと考えても、それは、今自分に生じた不安や懸念を、将来に反映したものであろうと考えるようになります。

「自分が作り出したこと」なのではないかという「認知」は、私が意識的に考え導き出したものではありません。ヴィパッサナー瞑想を継続することによって、当然にそこに行き着く、という「性格」のものであるように思います。

この『当然にそこに行き着く、という「性格」』がヴィパッサナー瞑想を特徴づけるものであると感じています。

ヴィパッサナー瞑想とMBSRの最も大きな違いは、ヴィパッサナー瞑想の方法論は、涅槃を目指しているために、ネガティブな思考だけでなく、自分の理想の実現といったポジティブな思考さえも無明と渇愛によるものとして滅尽の対象としていることであると考えています。

ヴィパッサナー瞑想によっても、ティーズディールの言う「思考を必然に真実である、あるいは自己の一側面であるとみなすよりもむしろ、ネガティブな思考と感情は必ずしも現実の妥当な反映でも自己の中心的側面でもなく、それらを心の中を通過する出来事として観られるような視点の転換」もしくは、そのような考え方が生まれることにはなります。

しかし、ヴィパッサナー瞑想による滅尽の対象は、ネガティブな思考を生み出す人間の認知だけにとどまらないことに注意が必要です。

先に引用したティーズディールの言葉「私たちを不幸にするのは経験そのものではなく、(仏教の分析では)私たちの経験との関係または(Beckの分析では)私たちの経験の解釈であることを強調していた。」に即していえば、ヴィパッサナー瞑想は、「経験の解釈」をも滅尽することに行き着いてしまいます。

そもそも初期仏教の認識論は無我であり、その意味するところは、体に生じる感覚、感情、認識は自分のものではなく、自分でもない、なぜなら感覚、感情、認識は生じては消えてゆくものであり、我が生じては消えてゆくという主張は成立しない、というものです。感覚、感情、認識は生じては消えてゆくものなので「私たちの経験の解釈」を変更するという考え方は、「涅槃」への到達を目指す初期仏教からは出てきません。

仏教の認識論もしくはヴィパッサナー瞑想を行ってきたテーラワーダの実践は、「経験の解釈」そのもの、経験の解釈により生起する欲と不快感(感情)を止滅することにより、安楽な状態が実現し、安楽な状態により智慧の働きが生起し、より強力な集中力観察力を獲得し、最終的には安楽すらも止滅され、涅槃が完成されるとというところに、行きついてしまう、そうならざるを得ない方法論だと考えています。

出家者であればそれでよいのでしょうが、仕事を持ち家族とともにいる「世俗」の人々にとっては、難しい、というより「選択すべきではない」とすら感じる方法論です。

ヴィパッサナー瞑想は、テーラワーダ仏教の価値観からは切り離して行う必要があるように感じます。
出家していない人が、出家者の考え方による瞑想を行うことはあまり気が進みません。
ヴィパッサナー瞑想を、テーラワーダ仏教の価値観から切り離して行うならば、依るべきは釈迦の教え、釈迦が認知した「苦が発生するメカニズム」やそれの認識方法、ということになります。

仏教の考える「苦が発生するメカニズム」とその対策

仏教の考える人間の感覚、感情、行動と苦が発生するメカニズム、プロセスについて、仏教の認識論である色・受・想・行・識で説明します。

私のヴィパッサナー瞑想の体験と阿含経の説明との対照から、どうも、自分はこのように反応し認知し行動しているようだ、という理解です。一般的な理解、説明とは異なっているかもしれません。

物質としての身体
身体が感受する感覚(感受)。

眼、耳、舌、鼻、体、意の六内処(器官)に対応する六外処(外部刺激)、六識身(神経)が接触して6触身となり「六受身」(=受)が生じ、さらに六愛身(執着)が生じるとされます。
仏教の認識論では「楽」「苦」「不苦不楽」は「身」に生じると考えています。
「受の随観」は、六受身とともに体に生起した「楽・苦(苦受)・不苦不楽」に気付き、言葉で認識する訓練です。

「楽・苦・不苦不楽」については、「マインドフルネス認知療法原著第2版 北大路書房」に「暗黙の情動の手がかりについての研究※によって、私たちはほとんどの瞬間で、快適か、不快か、どちらでもないかに基づいて、入ってきた刺激に反応していることがわかっている。」と記載されています。※参照文献:Friedman RS,Foster J.implicit affective cues and attentional tuning:An integraitve review,Psychological Bulletin 2010;136:875-893

仏教の認識論は、以下のように考えているようであり、この考え方によると、体による認知を重視しているように思います。
・「想」による認知に先行して、体は「楽・苦・不苦不楽」を感じている
・「楽」は、「行」により貪り(貪随眠)を形成する
・「苦」は、「行」により怒りうらみ(瞋恚随眠)を形成する
・「不苦不楽」の楽しさ危険性を知らなければ愚かさ(無明随眠)を形成する
・体の感覚「楽・苦・不苦不楽」を「想」でとらえる訓練(受の随観)をすることで
・観察力、集中力を高めて「行」を認識し制御すれば、貪随眠、瞋恚随眠を生じない
・貪随眠、瞋恚随眠を生じなければ「苦」は生じない(苦受が苦に成長しない)
・「楽」生起、「苦」の生起、不苦不楽の楽しさ危険性を知り
・出入息観を行えば、感情(欲、不快感)を離れ、初禅、念覚支に至る

念身経には、「安楽を捨て、苦しみを捨てたあとに、それ以前に、快・不快感が消滅しているので苦しみでもなく安楽もない、平静さによって注意力が澄みわたった状態である第四の禅定に達する」(「阿含経典第七巻 春秋社 第119経より)とされていますので、瞑想修行の最終段階では楽も苦も消滅するようです。
身体が感受する感覚を、認知すること、と言えます。受を「〇〇である」と同定する(初期仏教 仏陀の思想をたどる 馬場紀寿 岩波新書)ことと考えられます。

同定する能力であるとすると、「識」を参照して行うことになります。

言葉によらず認知すること、言葉による認知=(概念により)同定することの双方を含むように考えます。「想」を表象機能と説明する方もおりその場合には、言葉にらず認知することと理解しているのかもしれません。

尋、伺という機能があるとされます。尋:大まかな思考、伺:細かな思考。初期の認知にを受けて、「なんだろう」と「識るために」さらに観察し理解する機能と理解してよいと思います。

ちなみに「初禅」においては、感情(欲と嫌悪感)が止滅しますが、尋と止は存在するとされています。

ヴィパッサナー瞑想において、日常的に体の動きを観てラベリングするのは「想」の機能、つまりサティ、気づきを強化する訓練、言い換えれば「行」による観察と集中を通じて、「想」の機能を強化して、「受」への感受性を高かめる訓練と考えられます。
高められた感受性により、「受」で発生する「楽・苦・不苦不楽」、さらに心の状態や動きを観ることが出来ようになります。
意行、口行、身行があるとされますので、「行」は、心に生じた感情、考えや思考や意思、発言・発話、行為行動ということになります。

「受」「想」をうけて起こる無意識的であるか意識的であるかを問わない能動的な働きとらえています。

具体的には「想」による認知に接続して生じた「想の解釈やその解釈により発生する感情、意欲、思考、意思決定、行為、行動等の一連の働き、楽・苦に影響を与える能動的行為」ととらえられると思います。

このようなとらえ方をすると、「行」はループ状に連鎖してゆく、という理解になります。
「一連の働き」「ループ状に連鎖してゆく」ととらえるのは感情、意欲、意思決定、行為、行動を別個のものととらえたのでは、因と縁により渇愛と苦が生起する過程を説明できないと考えているからです。

「こうしよう」と考えたときに「しようかな」=未決の状態である場合もあり、こうするという「決心」という場合もあります。「しようかな」の状態では、決めきれない何らかの不安(という感情)があるから決心に至っていないのかもしれません。

決心した場合に決心とともに「こうしよう。そしてこれを得よう」と目的意識を持つこともあれば、「こうしよう。そうすればこれが得られる」と予想している場合もあるでしょう。
得たいという目的意識、得ることが出来るだろうという予想は、いずれにしても楽による欲が生じている思考(貪随眠)であり、行動に移せば欲を生じさせる行動(貪欲蓋)となります。
「こうしよう、でも、失敗して〇〇になるのは嫌だ」「こうせざるを得ない」ということであれば不快感(瞋恚随眠、瞋恚蓋)を生じさせるでしょう。

「行」を「想の解釈やその解釈により発生する感情、意欲、思考、意思決定、行為、行動等の一連の働きであって、楽・苦に影響を与える能動的行為行為」と考えると、釈迦が転法輪(漢訳)で語ったとされる「苦の生起の聖諦はこうである。いわく、迷いの生涯を引き起こし、喜びと貪りを伴い、あれへこれへと絡まりつく渇愛がそれである。」(阿含経典第三巻「如来所説」 増谷文雄 筑摩書房)という説法の理解を促進します。

「受」による感受された感覚には「楽・苦・不苦不楽」が生起し、「行」によって、「想の解釈やその解釈により発生する感情、意欲、思考、意思決定、行為、行動等の一連の働きであって楽・苦、楽・苦に影響を与える能動的行為」が形成されることと考えることと、「行」を「意思」に限定せず「諸形成作用」ととらえた馬場紀寿先生の訳とは整合性がとれ、しっくりときます(「初期仏教 仏陀の思想をたどる」岩波新書)。

「行」を「意思」と説明することもあるようですが、下記の【苦が終滅しない人】【苦が終滅する人】を考えると「行」を「意思」としたのでは訳文との整合性が取れません。

上記のような理解に立つと、「苦を知る」「苦の生起を観る」「苦の滅尽を知る」「苦の滅尽に至る道を知る」という四聖諦についての理解が進みます。

「これは苦であると認識し(苦を知る)、苦受が発生し、「行」が「縁と」なって苦受が苦へと拡大変化することを知り(苦の生起を観る)、苦受および苦を生起させる「行」を滅すれば苦の生起はなくなる(苦の滅尽を知る)、この方法を実践すれば苦は滅尽される(苦の滅尽に至る道を知る)」という認識プロセスとも整合的であるように感じます。

「行」を、「想の解釈やその解釈により発生する感情、意欲、思考、意思決定、行為、行動等の一連の働きであって、楽・苦に影響を与える能動的行為」ととらえると、苦から解放されるためには、「四聖諦」による認識に基づき、「行」において「八正道」を実践することにより苦の生起を止めることが可能になると理解できます。

【苦が終滅しない人】()内宮崎追記
楽の感受をうけているときに、その人が喜び、歓喜し、それに執着する(=行)ならば、執着する性向(貪随眠⇒識に保存される)が潜在する。
苦の感受を受をうけているときに、その人が愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいる(=行)ならば、怒りうらむ性向(瞋恚随眠⇒識に保存される)が潜在する
不苦不楽を感受したときに、その人が感受の生起と滅没、感受の楽しさと危険性、感受からの遠離を正しく理解しない(=行)ならば、おろかさという性向(無明随眠⇒識に保存される)が潜在する。

【苦が終滅する人】()内宮崎追記
楽の感受をうけているときに、その人が喜び、歓喜し、それに執着しない(=行)ならば、執着する性向は潜在しない。
苦が終滅する:苦の感受を受をうけているときに、その人が愁い、悲しみ、嘆き、胸を打って泣き、迷妄におちいらない(=行)ならば、怒りうらむ性向は潜在しない。
苦が終滅する:不苦不楽を感受したときに、その人が感受の生起と滅没、感受の楽しさと危険性、感受からの遠離を正しく理解する(=行)ならば、おろかさという性向は潜在しない。
(「原始仏典」第七巻 春秋社 第148経より)

「行」は経験として「識」に保存され記憶される対象と考えてよいように思います。
記憶されるが故に感情、意欲、思考、意思決定、行為、行動等は「識」の影響下にあり、記憶された感情、意欲、思考、意思決定、行為、行動等は、容易に再現されます。

四念処(ヴィパッサナー瞑想)は、「行」の働きによって観察力、集中力を養い、無自覚的になされる「行」の働きを意識して注意深く観察して、「苦を知る」「苦の生起を観る」「苦の滅尽を知る」「苦の滅尽に至る道を知る」ための瞑想、「八正道」は、「苦の滅尽に至る道を実践」するための「行」の指針と言えます。
「受」「想」「行」により経験され学習され保存記憶された総体としての知識・認識
「経験され学習され保存され記憶された」ことは、「道筋」として「受」「想」「行」の再現を誘発し、それによって「識」に影響を及ぼし続けると考えられます。

「行」によって形成された、貪随眠、瞋恚随眠、無明随眠は、「識」に保存記憶され【苦が終滅しない人(行)】で説明される事態を生じさせると考えられます。

ヴィパッサナー瞑想は最終的には、「心の随観」および「法の随観」により、「識」を観察し組み替えることに至ると考えます。

現在において「苦」を生じさせないためには、「四念処」により「観察力」と「注意力」を養い「四聖諦」により、苦受の発生を抑え、「行」すなわち「想の解釈やその解釈により発生する感情、意欲、意思、行為、行動等の一連の働き」=「苦が生起する道筋」の再現行為を行わないようにすることで達成されます。

一方、未来において苦が生じなようにするには、「行」についての「保存され記憶された総体としての知識・認識」=「苦が生起する道筋」を組み替えることが必要だと考えられるからです。


仏教の認識論「阿含経」によりMBSRの方法論を説明してみる

阿含経を参照してマインドフルネスの方法論を説明しようとすると、以下のようなトレーニングであると言えるように思います。

マインドフルネス・MBSRの方法       阿含経に説かれている方法論によるMBSRの理解
レーズンエクササイズレーズンを観察し、ゆっくり食べることによって口内の動き、味覚により生じる感覚に注意集中することにより、MBSRの取り組み方、注意集中を理解してもらう導入口としているようです。

「念身経」には「食べたり飲んだり噛んだり味わったりするのを意識して行う」ことにより「身体にむけた注意」を養成するとあり、仏教瞑想では食べることを意識して行うことをやってきました。
噛む飲み込むという体の動き、味覚を観察することで、体の動き、感覚、「楽・苦・不苦不楽」を観察する力(MBSRでは洞察力)が養われます。
呼吸法
(説明)
MBSRでは、呼吸への注意集中により身体、感覚、心への洞察力を深めることができると説明しています。

呼吸への注意によってどのような状態が到来する(効果=目的とはとらえません)のか、ということは、私が説明するよりも「治意経」を引用するほうがわかりやすいと思います。

「治意経」では、出入息観(呼吸法)によって「四つの注意の確立」が行われると説いています。四つの注意とは身体、感覚、心、事象への注意です。そのうち出入息観による身体への注意の確立の部分を引用します。

「比丘たちよ、比丘が長く息を吸いながら『私は長く息を吸っている』と知り、長く息を吐きながら、『私は長く息を吐いている』と知り、短く息を吸いながら『私は短く息を吸っている』と知り、短く息を吐きながら、『私は短く息を吐いている』と知り、『全身を感じ取りながら息を吸おう』と練習し、『全身を感じ取りながら息を吐こう』と練習し、『身体の活動を鎮めながら息を吸おう』と練習し、『身体の活動を鎮めながら息を吐こう』と練習するとき、比丘たちよ、そのとき比丘は〔身体という〕世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、身体を身体として観察している、比丘たちよ、呼吸というものは身体〔を構成する要素〕のうちのひとつであるといえる。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は〔身体という〕世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、身体を身体として観察しているのである。」

「MBSRでは、呼吸への注意集中により身体、感覚、心への洞察力を深めることができると説明しています」ということの意味するところは、なんとなくご理解いただけると思います。

おだやかな呼吸を行い(それだけで副交感神経の働きが優位になり鎮静効果があります)、呼吸に『全身を感じ取りながら息を吸おう』という言葉を乗せて、「言葉」から『全身を感じ取りながら息を吸おう』という意識を作り、意識からさらに『全身を感じ取りながら息を吸』うという実践へとつなげます。このような実践により『世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、身体を身体として観察しているのである。』という、欲や不快感という感情を離れて(ストレスフリーな状態の実現)、観察力、カバットジンのいう洞察力が高まります。

ヴィパッサナー瞑想を行っていると上記の状態は体現できますので、違和感なく理解できますが、瞑想経験がない方には、少しわかりにくいかもしれませんので補足します。

釈迦は、目的を示して、こうすれば目的地に到達できる、という教示スタイルはとっていません。(目的地は(たぶん)涅槃であるからでしょう。)こうしてみなさい、そうするとこうなる、やってみなさい、という教示スタイルを取ります。目的に到達するためにはこうすればよい、という概念的理解では苦はなくなりません。そのため、自らの実践を促進するために、こうなるはず(目的地は涅槃)だから、やってみて自分で体験してみなさいという教示スタイルを取ったのでしょう。そのため釈迦の教示スタイルは、概念的理解を重んじる教育を受けた我々には、少しなじまない表現になっているのです。

MBSRでは「このプログラムを行うことで達成したいと思っているゴールを三つ上げるように言います。そして次に、これから八週間のあいだに各自があげた三つのゴールを達成しようと努力しないように、と言い聞かせます。」と説明されています。カバットジンの教示スタイルも釈迦の方法論を踏襲しているように感じますが、そうではなくて、自身の瞑想体験から得た、目的意識(欲、目的が達成できなことによる不快感)を持つと瞑想効果(「熱心に、意識し、注意しながら、身体を身体として観察することによってもたらされるメリット)が減殺されるという理解に基づいているのかもしれません。

少し補足してヴィパッサナー瞑想による呼吸の観察を説明すると、おだやかな呼吸を行い、呼吸に意識を集中し、呼吸に伴う体の動きをリアルタイムで言葉で確認するという3つの行為が違和感なく調和している時には、「熱心に、意識し、注意しながら、身体を身体として観察している」状態になり、その時には思考と感情(怒りもしくは不安)がなくなってゆくことが体験できます。つまり「世界に対する欲や不快感を除き去って」という状態が到来することが体験できます。実際に「世界に対する欲や不快感を除き去って」という状態体験すると、感情がなくなると、こんなに楽な状態(=負担を感じない状態)になるのかということを実感します。

この状態自体がヒーリング効果をもたらします。ただし一般的に言われるヒーリング効果ではなく、「世界に対する欲や不快感を除き去って(すでに述べましたがこの状態自体がストレスフリーな状態です)」体と心が、きわめて安楽で負担のない状態、という意味です。

この状態は、仏教においても副次的な効果ではないように思います。
当然、初期仏教の修行としては、この段階にとどまっていては、涅槃に到達できないので、この状態へ執着することなく、さらに先へ進むこととなります。しかしながら、「楽な状態=負担のない状態」を維持してゆくと、この状態であっても負担を感じるようになるようです。
初禅(4禅定のうちの最初の禅定)では、「世界に対する欲や不快感を除き去って」という状態になりますが、大まかな思考「尋」と細かな思考「伺」は残るとされています。
2禅に至り「尋」と「伺」がなくなりより集中力が高まるのですが、2禅に至る過程で「尋」と「伺」をうっとうしく負担に感じるようになることにより、「尋」と「伺」を止滅もしくは遠離するようになるようです。
これを「捨」、捨てることにより心が平静な状態になることを言うようです。
このように考えてゆくと、涅槃とは、身と心の感覚を頼りに、「捨」によって、より「楽な状態=負担のない状態」を経験することにより、究極の「楽な状態=負担のない状態」=涅槃にたどり着くものなのかものかもしれません。

そして、この方法論が最適なのは「出家」ということになります。

MBSRは、出家せずとも呼吸法のもたらすメリットを享受できる方法論であると考えます。呼吸法のもたらすメリットを出家者でなくとも享受できるということは、画期的なことだと考えます。

また一方では、MBSRではなくとも、ヴィパッサナー瞑想によっても、初禅の段階に至れば十分なメリットを享受できると思います。

初禅の段階に至れば、欲や不快感等の感情はなくなるものの、「尋」「伺」という思考は残りますので、欲や不快感を感じない状態(感情が止滅している状態ですので、当然に自分に対する罪の意識や無価値観のような感情も生じません)で、自分に心理的な苦悩をもたらす自分の思い込みや解釈の傾向を修正する「慈悲の瞑想」を行うことも出来ます。

「自分に悩みをもたらす自分の思い込みや解釈の傾向」は、認知行動療法における「非機能的な自動思考、媒介信念、中核信念」、交流分析(TA)における「人生脚本」「禁止令」などを手掛かりにして、特定することができます。

出入息観とMBSR は、実践方法や説明は異なりますが、呼吸法によりもたらされる効果は大きく変わらないように思います。

では呼吸法がなぜ、ストレス低減法としてMBSRの取り入れられているのでしょうか。
言いかえれば呼吸法には、なぜストレス低減効果があるのでしょうか。
少し長くなりますが、私の理解を説明します。

釈迦は、外部の刺激を受けて心に生じる認知や感情、思考は自分ではないと説いています(「六六経」)。
釈迦は、外部の刺激を受けて心に生じる認知や感情、思考は、生じたならば、やがて消滅してゆくものだという観察結果から、心に生じる認知や感情、思考を「私」であるとすると、私は生じては消えてゆくことになる、だから、心に生じる認知や感情、思考は、私であるという主張は成立しない、と説きます。

釈迦の観察は、さらに苦の終滅の説明へとつながるのですがここでは、立ち入りません。

「心に生じる認知や感情、思考は、私であるという主張は成立しない」という初期仏教では当然の主張(カバットジンさんもその様に受けて止めているように感じます)は、たぶんアメリカ人にはなかなか理解しがたいものでしょう(私の推測です)から、MBSRでは、この論理は展開せずに、今という瞬間に注意集中する、という方法論によって、「外部の刺激を受けて心に生じる認知や感情、思考は、生じたならば、やがて消滅してゆく」ということへの対応を「うまくやってゆく」ことを意識的に行う訓練として、呼吸法による「洞察力」の強化を狙ったものと推測します。

「生じたならば、やがて消滅してゆく」ものではあるものの、体に生じた疼痛等はインパクトが大きく、疼痛により引き起こされた(概念的理解による)不幸や不遇、怒り、自己へのあわれみなどの思考が固定化してしまいがちになります。

一方、認知や感情、思考は日々生じていますが、「疼痛により引き起こされた(概念的理解による)不幸や不遇、怒り、自己へのあわれみなどの思考が固定化してしま」っているため、日々新たに生じている認知や感情、思考に注意が払れず、認知されないメッセージがが消滅できず滞留していることが予想されます。

日々新たに生じている認知や感情、思考は正当に注意が払われ、メッセージとしての役割を終えることによって消滅するのですが、メッセージを伝えることが出来ないので、消滅することができません。ヴィパッサナー瞑想では、メッセージを理解しメッセージが消滅することによる解放感を感じることができます。

消滅することができないことは、体と心の負担となります。負担になることによりエネルギー生成が減少(またはエネルギー消費が増大かもしれません)します。わかりやすく言うと元気がなくなります。本来、認知や感情、思考はメッセージを伝えるという役割を終えて消えてゆくことにより、体と心の負担を軽減していると考えれば当然の帰結と言えます。

生まれては消えてゆくのだから、生まれたことを知ってそのままにすればよい、という考えは(周囲や環境との関係の中で自分の在り方を考え、自分の意思を明確に主張することを避けつつ、浮遊する感覚で事態の推移をみる)日本人には違和感はあまりないのでしょうが、「自分の意見を持ちその意見に従って行動することが良いこと(根底には神との契約による個我のコミットメントを重視するという文化があるのかもしれません)」という価値観が強固にあれば、「生まれては消えてゆくのだから、生まれたことを知ってそのままにすればよい」という態度には抵抗を感じるかもしれません。

その様な事態を打開するために、呼吸法(呼吸への注意集中)により洞察力を強化して、意識して「注意がはらわれず認識されていない認知や感情、思考」に気付いてあげて、「感覚に関連して生じてきた思いや内的なイメージをとき放」つことで消滅させるということを訓練して、体と心の負担を軽減する、というMBSRの方法論が生まれたのではないでしょうか。

当然この方法論は、慢性疼痛等によって生じる「認知や感情、思考」にも向けられ、「感覚に関連して生じてきた思いや内的なイメージをとき放」つことによって、効果を示すでしょう。

上記の様な方法論を推進するため、古来より行われてきた仏教瞑想の呼吸法を活用し、取り組みやすく、かつアメリカ人の価値観にも抵抗感を引き起こさない方法論により、仏教の呼吸法をアレンジして、「呼吸への注意集中により身体、感覚、心への洞察力を深める」ことを意図したと考えられます。

ヴィパッサナー瞑想との比較でいうと、MBSRは「注意集中力を高め、意識された心理的態度を目指すもの」と感じられます。

このように考えるとカバットジンさんの言う「注意集中力を高め、治癒力を開発するためのトレーニング」であるということの説明がつきます。
静座瞑想法「MBSRでは、呼吸への注意集中により身体、感覚、心への洞察力を深めることができると説明しています」に基づく苦、呼吸法の実践形態です。

座禅もしくはヴィパッサナー瞑想の座ってする(呼吸を観る)瞑想と、方法論および到達点は同一ではないでしょうが、ニアリーイコールの効果をもたらすと考えています。

経験から言うと、怒りや不安、不満等の不快感を感じている時の呼吸は浅く緊張した(余分な力が入っている状態)ものになりがちです。

「苦が発生するメカニズム」のところでもご説明しましたが、不快感(仏教では苦(受))を感じているときに、嘆き悲しむという「行」を行うと、不快感は「苦」となって存続すると考えました。
不快感を感じているときに、それを(より大きくして)存続させてしまう『嘆き悲しむという「行」』を行わないためには、静座瞑想による呼吸への意識の集中によって洞察力を養い、「嘆き悲しまない」という態度をとる必要があります。

静座瞑想法により、呼吸に意識を集中し洞察力が養うことによって、静座以外の場面でも呼吸への注意集中により洞察力を働かせる(スイッチを入れる)ことが出来るようになり、不快感を(より大きくして)存続させること=苦悩を避けることが可能になるように思います。
ボディスキャン呼吸への意識集中とともに行うとは説明されていませんが、「治意経」(出入息観)〔「四つの注意の確立」の完成〕のなかに説かれる、「世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、身体を身体として観察する」「世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、感覚を感覚として観察する」ことと同様の効果をねらって、行うものととらえてよいように思います。

容易に取り組めるよう、出入息観のように呼吸と同時にではなく、呼吸法は別建てで行い、横たわって身体、感覚への注意集中を行うこととしたものと推測されます。

また一方では、カバットジンは「感覚に関連して生じてきた思いや内的なイメージをとき放ち」と説明していますので、禅やヴィパッサナー瞑想による「放す」もしくは「離す」訓練も援用しています。

「放す」もしくは「離す」ことが必要な理由は「呼吸法(説明)」でお話した通りですが、体が感じる感覚を通して心に生じることを知り、それに反応しない(思考として追いかけない)ことが理想ですが、容易にはできないことなので、現在への注意集中を通じて、現在の感覚を知り、感覚から心に起こった想念を知ったうえで、意識して「感覚に関連して生じてきた思いや内的なイメージをとき放」つことを推奨しているのだと推測します。
ヨーガ瞑想法「念身経」では「所作の自覚による修習」として「曲げたり延ばしたりするのを意識して行う」ことにより「身体に向けた注意」を養成するとあります。

カバットジンは、「吐いたり吸ったりする息の流れに注意を集中し」「心がさまよいだしたら、何に心がうばわれたのかをはっきり意識したうえで、それをとき放ち」と説明しています。

体の動きの中で呼吸に注意集中することにより、静座瞑想法で養った洞察力を働かせる(スイッチを入れる)訓練を行い、それによって、日常的に呼吸への注意集中と洞察力を働かせることを容易にすることをねらったのものかもしれません。
歩行瞑想「念身経」「所作の自覚による修習」には「歩いているときに『私は歩いている』と知る」と示されており、歩行が「身体に向けた注意」の養成に役立つとされています。それゆえ仏教瞑想では、歩行の瞑想に取り組んでいます。

日常生活の中で、短時間で取り組める「身体に向けた注意」(念身経)の養成=洞察力を養う方法として採用されたものと考えられます。

「治意経」「念身経」「六六経」は、「原始仏典第七巻中部経典Ⅳ 春秋社」によります。

MBSRの実践方法は、その源泉となる考え方は阿含経に見つけられますが、カバットジンは、阿含経に基づいてMBSRを作ったのではないように思います。「出入息観」や「四つの注意の確立」や「身体にむけた注意」は、仏教瞑想で実践しているものであり、カバットジンはこれらを実践していたと考えられるからです。

仏教瞑想で行うトレーニングは、阿含経、つまり釈迦の教えに基づいています。

カバットジンは仏教瞑想に取り組む中で、釈迦の教えを体現し、その体験をもとに、アメリカ人のメンタリティに違和感がないように、MBSRを創出したと考えています。

仏教瞑想の体験から創始したプログラムであれば、その源泉をたどってゆくと、それは必然的に釈迦の教え、つまり阿含経に行き着きます。

なぜならば、それが「法」だからです。道元の言葉を借りて言えば「法」は、「万法に証せらるるなり」という効果をもたらすものです。意識してそのようになるのではなく、やっていればそのようになってゆく、という性格のものです。

カバットジンは「マインドフルネスストレス低減法」の中で、意図して行わないように、ということを強調しています。意図して行うことで、法が発現しない、人が本来もっている解決のための「智慧」や「自然治癒力」が働かなくなってしまうことを瞑想体験から理解しているのだと感じます。

ストレスの低減は「四聖諦」の方法論でも説明できます

私は、「四聖諦」によって、カバットジンの「マインドフルネスストレス低減法」、「Beckの認知モデル」(認知療法もしくは認知行動療法の基本的な考え)による、心理変容のプロセスを理解できると考えています。

言い換えれば、2500年前に釈迦が説いた「四聖諦」の現代的な実践が「マインドフルネスストレス低減法」であり「Beckの認知モデル」であると言ってもいいように思います。

ただし、完全に苦から解放される方法論としての「四聖諦」ではなく、仏教の認識論と「Beckの認知モデル」に合致した、日常的に「気分が低下する」ことを避ける方法論、という限定付きです。

そして「四聖諦」に至る方法が「四念処」、つまりヴィパッサナー瞑想です。

それゆえ禅とはやや別系統となりますが、マインドフルネスとしてのヴィパッサナー瞑想は有用だと考えています。

なぜヴィパッサナー瞑想が有用だと考えるかというと、

  • 強い瞑想効果があり、継続して取り組めば必然的に心の把握に向かう
  • 仏教の認知論=心理把握をうまく活用すれば、気づきによる自己の「意識的な変容」を促すこともできる
  • ヴィパッサナー瞑想に取り組むことで、身体、感覚、心への感受性を高めることで、本来はカウンセラーやセラピストとともに行う認知行動療法の「非機能的な自動思考、媒介信念、中核信念」や交流分析の「人生脚本分析」「禁止令」などの特定と修正などの介入を、自分で行えるようになる
  • 「止」の(欲と不快感が止滅した)状態にいたり、「観」の(欲と不快感に影響されない思考が働きだす)状態になり、「智慧の発現による新しい認知」が生まれる状態(念覚支、択法覚支)になれば、ストレス解消効果、アンガーマネジメント、創造性開発、問題解決等の効果がもたらされる

と考えるからです。

ヴィパッサナー瞑想は「目的地」を調整する必要がある

「目的地」は調整する必要があります。

なぜならば、ヴィパッサナー瞑想は、テーラワーダ仏教において、釈迦と同じ涅槃に至るための修行として現代に至るまで行われてきたものなので「目的地」は涅槃です。

テーラワーダを含む部派仏教(釈迦の教えを実践してきた教団によって担われた仏教)の時代から、涅槃に到達することが部派仏教の目的であったように思われます。

なぜそのように考えるのかというと、釈迦入滅後、釈迦の教えを受けた人たちが集まり釈迦の教えを確認した(第一結集)とのことですが、釈迦に長年付き添ってきたアーナンダーは、当初「阿羅漢果」つまり涅槃に至っていなかったため、参加が許されなかったそうです。

結果として、アーナンダーは、第一結集当日の朝に「阿羅漢果」に至り、第一結集に参加し、釈迦の教えを伝えました。

「阿羅漢果」(涅槃)に達していないことをもって、参加をゆるされなかったものが、「阿羅漢果」に到達することによって参加を許されたということは、「阿羅漢果」に至ることが、教団の中で、大きな基準となっていて、教団内におけるその人の地位もしくは権威を確立するものであったと考えられます。
このことから部派仏教では「阿羅漢果」「涅槃」への到達が目的化され絶対視されていたのではないか、と推認しても違和感はありません。

加えて釈迦が、妻子や両親を残して修行生活に入り、家族の元へ戻らなかったことにより、生まれ育った家族のもとを離れて修行することがスタンダードとみなされたであろうこと、釈迦に付き従う人々が増えて、サンガが自然発生的に成立し、そのサンガを安寧に運営するための決まりごと(戒律)、とともにサンガに帰属する自分たちの価値を、自分たちが確認するための価値体系が必要とされたでしょう。

その価値体系の最上位に「阿羅漢果」「涅槃」に置くことによって、集団の統率をはかった、と考えてもいいのではないかと思います。

そして釈迦の教えの伝承と実践が、サンガによって担われたことにより、出家者による「涅槃」への到達を最上位とする価値体系を作り上げて、その価値体系に基づき釈迦の教えを伝承し、場合によっては加筆や削除、修正を行い阿含経を編纂整備したのではなないかと推測しています。そしてその価値体験に基づき実践されてきたのがヴィパッサナー瞑想ではないかと感じています。

釈迦は、生きることにまとわりつく苦悩からの解放のために家族のもとを去り、修行生活にはいったのでしょうが、弟子たちは自らの苦悩からの解放を目的としたのではなく、釈迦と同じ境地「阿羅漢果」「涅槃」への到達を目的としてきた、ととらえてもよいように思います。

釈迦と同じ境地「阿羅漢果」「涅槃」への到達を目的とすることは、すべての人(信仰するかしないかは別として)に適用できる考え方ではありません。すべての人が、釈迦と同じ境地「阿羅漢果」「涅槃」への到達を目的として出家して修行することはできないからです。

その様なことをしたら社会が成り立ちません。

その意味でテーラワーダは、エリート主義です。また社会が、そのようなエリートが存在することを認め、社会が支援して来たからこそ存続してきたとも言えます。

このように考えると、大乗仏教の勃興は必然であったと考えます。

ヴィパッサナー瞑想は、ひたすら涅槃を目指して進んでゆく瞑想法、ということに納得がゆきます。

釈迦の教えに基づき、涅槃に到達することを至上価値とする人々が、涅槃にいたるための方法として、工夫し実践してきたのですから、ひたすら涅槃を目指して進んでゆく瞑想法になるのは当然です。

「ひたすら涅槃を目指して進んでゆく瞑想法」を、「苦悩からの解放を目的としたのではなく、釈迦と同じ境地「阿羅漢果」「涅槃」への到達を目的としてきた人たちのやり方」でやることが、果たして世俗に生きる私たちにメリットがあるのだろうか?という疑問が生じます。

一生懸命やっても、簡単に涅槃には至れないけれども、それはそれで仕方ないし、それでもいいのではないか、という考え方もあるでしょう。

ヴィパッサナー瞑想は出家者が、涅槃を目指して進む瞑想法として整備されてきたので、出家者でないものは、「目的地」を調整した方よいだろうということ、出家者でないものが実践しても、釈迦が説いた仏教の認識論を活用することで、ヴィパッサナー瞑想の効果は認められるだろう、と考えています。

釈迦は「自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲として、法を依処として、他を依処とすることなくして住するがよい。」(阿含経典第三巻「病」 増谷文雄 筑摩書房)

「法を頼りに、自らやってゆけば、必ず法の通りになりますよ」と言えるからこそ法なのでしょう。

「法」を依処として、「自らが行き先」を決めてヴィパッサナー瞑想に取り組めばよいと思います。

MBSRは釈迦の教えの「アメリカ社会」的実践

MBSRは、仏教の法による説明を行わずに、仏教瞑想による方法論を通して、慢性疾患等に苦しむ方々の苦悩を低減することをねらったプログラムであると言えるように思います。

MBSRの根底にあるのは、出家者ではない現代人「生活者」が「自分の考え、価値観を持ち、自分の考え、価値観に沿った生活を送ることが善いこと」という考えを前提に、慢性疾患等に苦しみ「自分の考え、価値観に沿った生活を送ること」が出来ないと感じている方々に、新たな視点による生活の質向上へと導くための方法論を提供しているように感じます。

それに対してヴィパッサナー瞑想は、「人間は苦しむものだから、完全に苦しみから解放されるためには涅槃にいたる必要がある」「涅槃に至ることは価値あることである」「涅槃に至るための方法が、四念処や八正道でありその実践がヴィパッサナー瞑想である」というテーラワーダの考え方の上に組み立てられている瞑想であるように感じます。

MBSRの考え方は、仏陀の方法論の現代的解釈であり、MBSRは、現代人が実践できる釈迦の教えであると言ってもいいように思います。

ヴィパッサナー瞑想を、出家して労働に従事せず、至高の価値とされる涅槃への到達を目指して行う瞑想とらえれば、現代人が「そのまま」実践するには無理がある、と考えるのが自然です。

その様に考えると、カバットジンの仏教瞑想に対する体験と認識の「深さ」、カバットジンのなしたことの「価値の大きさ」をより一層感じます。

その一方で、MBSRが、「絶対核家族」社会、「個我の意識が強く自らの意見、価値観を持ち、自らの意見、価値観に則った生き方が良いとされる社会」を前提にし、そのような価値観を実現できないことに苦しむ人達へのプログラムとしてスタートしたものであるようにも感じられます。

このような印象は、MBSR に限らず、アメリカの心理療法の根底にあるように思います。
日本には日本独自のものが必要だと、ことさら強調するつもりはありませんが、彼らが「前提としているであろうと想像する価値観」が日本において支配的な心情とは異なると感じることは事実です。

日本人が個人の自由を認めていないわけではありませんが、地方では、たとえば「こうするはずだよね」という前提に基づいた話が、本人の意思とは全く関係なく語られる(本人からすれば勝手に決めないでよ、という感覚をもつ)傾向が強いようです。自由がないわけではありませんが、このような風土、土地柄と職業選択の問題とが合併すると、都会へ出てゆく誘因が強くなります。

言っている側の人たちは、「自分の考えかたと同じ」だよねとの前提に立っていれば、何ら努力して相手の意向や意思を確認しなくてよいので極めて心地よい状況なのですが、言われた方は、自分の考え方とのギャップを感じ、自分の意見を言ったり、自分の意思をとおして「変わりもの」と言われたり「浮いたり」して生きづらさを感じるよりは、自分からコミュニティを脱出した方が得策、という選択をしてもなんら不思議ではありません。コミュニティの考え、価値観と異なる主張をすることは、日本ではあまり良いことだとは思われていないと考えます。

日本人は、アメリカ人ほど(自分に影響を及ぼさない)他者の自由に属する行動を、許容することをしないのでしょう。自分と同じ判断基準であること、集団に支配的な指向性に合致していて異をとなえないことが「良いこと」「皆が心地よく感じる状態をこわさないことが良いこと」であると考えているように思います。そこでは「お互いの考え方は様々」ではあっても、「話し合いや議論」を通じた相互理解という概念は希薄なように思います。ずーとそうして来たのだから、それに従うべき、ということで解決して、「お互いの考え方の違いをさらけ出す」ことになる話し合いは、避けた方がいい、「考え方がちがうのは心地よくない」という心情が支配的なように感じます。

森嶋道夫さんは面白いことを言っています。
「日本のように学校教育が占領軍の命令によって、自由主義、個人主義を根幹とするように決められると、大人の社会も自由主義、個人主義を基軸とするものに改革されるべきだということを意味する。しかし大人の社会に関しては、占領軍はその様な命令を出さなかった。また占領が終了して、日本政府が教育の自主権を獲得した後も、政府は学校教育を再改革することはなかった。」(「なぜ日本は没落するか」岩波書店)

また森嶋さんはこのようにも言っています。
「新入社員を受け入れた会社は、「社員教員」という名の道徳教育を行い大人社会の掟を新入社員に強制した」。

これには妙に納得がゆきます。
なぜかというと、私は新卒で、企業内教育訓練を中心として組織活性化等のコンサルティングを行う会社に入社しましたが、その会社の経営者は「大学は、4年間の盛大なレジャー産業になり下がった」と言っていたからです。それは、「だから、新入社員を企業社会で戦力化するために(私たちの会社が提供する)企業内教育訓練が必要なのです」という文脈に中で語られていたからです。

森嶋道夫という「経済学者」とコンサルティング会社の経営者という「経営実務者」は、(何に軸足をおくかという)価値観は違えども同様な事実認識をもっていた、ということになります。

日本は、『「絶対核家族」社会、「個我の意識が強く自らの意見、価値観を持ち、自らの意見、価値観に則った生き方が良いとされる社会」』ではありません。個人の意思に大きな価値を認めるよりは、周囲との関係を重視したり、環境に依存する指向性や無常観が強いように思います。

日本の家族制度は、「直系家族」に分類されます。
「直系家族」は、長子相続が基本である家族制度を言うそうです。法律的には子供間の相続権は同等ではあるものの、家業を持つ場合、長男(長男でない場合もある)が家業を継ぎ、事業を相続することが多い家族制度です。

親の遺言により相続者を指名する欧米の「絶対核家族」、平等に分割相続するフランスの「平等主義核家族」と比較すると特徴がわかやすくなると思います。(エマニュエル・トッド「老人支配国家 日本の危機」文春文庫)。

「直系家族」の特徴は、革新よりは継続性を重視する価値観となりやすいことだそうです。

私の感想もしくは指向になってしまいますが、日本社会は、どちらかと言えば、ヴィパッサナー瞑想の「生きることは苦」という考え方によるアプローチのほうが親和性が高いように思います。

この場合の「生きることは苦」というのは、「自分のやりたいようにはできないこともあるし、生きているとあれやこれや周囲に気を使わなきゃいけないし、気苦労が絶えないよね」という感じです。この考えは自分の考えや自分の価値観への意識が強くなれば、当然悩みも強くなる性格のものです。

この感じ方の度合いは、環境との関数でも変化するでしょう。自分と環境との考え方や指向の落差が大きければより「生きることは苦」の度合いは高まるでしょうし、周囲が「自由にしていいよ」という考え方かつ態度であれば比較的「生きることは苦」の度合いは低くなるでしょう。

人間は、多くの場合、他者に親切にされ受け入れられることを心地よいと感じるでしょう。しかし一方で、他者はあなたに親切にして、あなたを受け入れるために存在しているわけではありません。

つまり人が集まる集団や組織、社会はそもそも個人の願望とは相反する性質を持っていると考えた方が合理的です。

その様な集団や組織が本来抱える矛盾へ、アメリカは「絶対核家族」社会を基礎として、強固な個我の意識を背景に自由意思を尊重し、自由意思に基づいた(楽観的な生き方が)良いとされる考え方によって対応し、片や日本は、集団や組織内で波風立てないこと、対立しないことを良しとし(対立が生じないわけではありません)、はっきりと自分の意見を言わない、立場を鮮明にしないことで集団や組織の機能を維持してきた、ととらえられるかもしれません。

ここに至って私の考えもしくは感覚を申し上げれば、アメリカ社会に受け入れられるようにアレンジした「仏教瞑想に基づくエクササイズ」を日本に持ってきてそのままの方法でやる、ということに、私は少なからず違和感を感じている、ということになります。

MBSRを否定しているわけではありません。素晴らしいプログラムです。

あくまでも私が考える、という限定付きですが、「瞬間瞬間に注意を集中することで、体の感覚を受け入れ、今の自分を受け入れる、そして心に生じた感覚や考えを放す」ということを意識的自覚的に行うための教示方法よりも、日本人には「生きることは苦」「自分のやりたいようにはできないこともあるし、生きているとあれやこれや周囲に気を使わなきゃいけないし、気苦労が絶えないよね」という認識を前提に、「好かろうが悪かろうが、今私はここに現に存在している(その時苦は止滅している)」という状態を目指す方が、私にはしっくりきます。ただしこの感覚が「安楽をもたらすもの、心地よいもの、負担がなくなるもの」であるということは、ある程度瞑想をしないとご理解いただけないだろうとは思います。

また、釈迦の教えが深遠できわめて尊いもの、というのはお坊さんが広めた「あるある」「都市伝説」の類によって初期仏教の方法論への理解が進まなこともあるように思います。

事実阿含経は驚くほど平易です(平易ですが最新訳は高価なのでアクセスしにくいという現実はあります)。平易であるため、天台大師智顗は、阿含経は、釈迦が法を説き始め、法の理解が進んでいない人々に向けて説かれたものであり、法の理解が進むにつれて釈迦は涅槃経や法華経などの高度な教えを説いた、と唱えました。

知的理解、概念的理解を重んじる現代教育を受けてきた我々には、ややなじみにくい物事の「とらえ方」(原因と結果、目的と手段は別とは考えない、原因であり結果、目的であり手段、同じものだが別のものといったようなとらえ方をしないと理解できない)をしている部分はありますが、学校教育を修了している人であれば、テキストとしての理解は容易です。

容易に理解できるのですから、釈迦の言う方法を自らやってみて、阿含経に照らして自分がどう感じるかを知って考えて取り組めば、多少の時間はかかるとしても、釈迦の説いていることを体験することができます。

このような理解の前提となる、MBSRとヴィパッサナー瞑想に対する私の理解を掲げておきます。

本来の意図は、MBSRとヴィパッサナー瞑想を対比するときに感じる違和感「もやもやっとした感じ」を明確にしたい、ということであれこれ考えてきましたが、結論として、MBSRは、仏教の用語や概念を使わずに、仏教瞑想がもたらす効果を目指したエクササイズを意識的に行うこと、という理解に落ち着きそうです。

すべての行為が涅槃へと収れんされる(最終的には、意識することすら止滅した絶対的な平静の状態に至る)ための方法論としてのヴィパッサナー瞑想とは、根本的に異なるものです。

そもそもヴィパッサナー瞑想は、出家者が涅槃を目的にして行う修行法です。すべての人が出家できるわけではありませんし、すべてに人が出家したならば社会が成り立ちません。

そのような前提の中で、一握りの出家者が涅槃を目指して行ってきた修行法と言えます。そのような観点から考えば、大乗仏教の出現は必然であり、現代におけるマインドフルネスの出現も必然であったと考えてよいように思います。

MBSRヴィパッサナー瞑想
基本的性格今ここに注意を集中する
根底にある考え方は「無常」:人が認知
するものは生じては消えてゆくのだから、今ここに注意を集中することで、生じたことは生じた認めるて、認めたあとはそれにこだわらず「放す」という態度を養成する
この態度によって健心健体がもたらされる
観と念により智慧を得る
観:感情を排して観察すること
念:行への集中
智慧:感情を離れ、ありのままに物事を見て、無明を滅する観
依拠する考え方豊かに人生を送ることは善いこと
方法論のベースは仏教の「法」
無常:人が認知するものは生じて滅するから無常である
苦:人が認知するものには愛着が生じるが、愛着に関わらず滅し、怒りが生じるから苦である。よって生きることは本来苦である
無我:人が感受する感覚・認知は生じて滅するから我ではない(我でもなく我のものであるとも特定できない)、我のものでもないことを我とみなすと苦が生じる
※釈迦は「これらは自我ではない」と言っていますが「無我」を説いてはいません。
人間観自分の考え価値観に基づき、自分の人生を送ることが善いこと
「無我」は方法論のベースにあるものの
積極的にはフォーカスしない
生きることは苦:人間はありのままでは苦しむ認知構造になっている
無我(自我否認)
方法・手段呼吸と体への注意集中を通じて、洞察力を高め、自分の生じたネガティブな感覚や思考を拒否せず自己の一部として受け入れる
その一方で、自分に生じた考えにとらわれず「放す」ことも
法に依拠して体・感覚・心の働きを観察し注意力集中力を養い(智慧を生じさせ)、苦、苦の生起、苦の滅尽を観て、苦を滅尽する道(八正道)を実行し法を証得する
※無我なので「自分を受け入れる」という発想はありません
生活もしくは実践方法8週間の講座
日常生活の中での週6日のマインドフルネス実践
出家
戒律に沿った生活
到達目標点身体的苦痛、慢性疾患はありつつも心理的苦痛(ストレス)を低減し、治癒力を高める
豊かに人生を送る
涅槃





あなたが幸せでありますように

あなたの悩み苦しみがなくなりますように

あなたの願いがかなえられますように



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