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「好感を創出」する「慈悲喜捨」について説明します
『マインドフルネス婚活・プログラム』では、説明できなかった、「マインドフルネス婚活」がめざす「好感の創出」につながる「慈悲喜捨」の考え方についてご説明いたします。
「慈悲喜捨」とは
スッタニパータ(「ブッダのことば」中村元 岩波文庫)には、次のような釈迦の言葉があります。
『73「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ一人歩め」』
中村先生は、慈悲喜捨を以下のように解説しています。
「やがて仏教では、願わしい心境として慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)、喜(よろこび)、捨(心の平静)の4つを説く。これを四無量心という。ここでは仏教教学体系における慈・悲・喜・捨の説かれる以前の段階であり、必ずしも四無量心とは一致しない。
- 〈慈〉(metta いつくしみ)とは、『一切の生きとし生けるものどもは安楽であれかし』〔と念ずること〕などのしかたによって、利益と安楽とをもたらすことを願うことである。
- 〈悲〉(karuna あわれみ)とは、『ああ、一切の生きとし生けるものどもが、この苦しみから脱れますように(vimucceyyum)』〔と念ずること〕などのしかたによって、不利益や苦しみを除去しようと願うことである。
- 〈喜〉(mudita よろこび)とは、『生きものどもは実に喜んでいる。かれらは見事に良く喜んでいる』〔と心に思うこと〕などのしかたによって、〔かれらが〕利益と安楽とから離れないよういに願うことである。
- 〈捨〉(upekha 心の平静)とは、『〔なにごとも〕自分の業によって表されるのである』と思って、苦楽(快と不快)にわずらわされず、平静となることである。
- 〈解脱〉(vimutti)というのは、自分の心(cetas)が違逆なる事柄から離脱しているが故に、諸々の解脱(vimuttiyo)が起こるのである」
同じくスッタニパータに、このような句もあります。
『151「また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく恨みなくまた敵意なき(慈しみを行うべし)」』
「慈悲喜捨」の育て方はテーラワーダの考えが役立ちます
「ブッダのことば」を、「解脱した釈迦の境地」=「到達すべき地点」から説明するのであれば、慈悲喜捨の説明は、まさしく上記の通りとなるでしょう。(ただしあくまでも「願うことである」とする点に留意してください。)
上記の考え方は、修行して天上界に生まれ変われるにも関わらず、他者を救うためにこの世にとどまり人々を救済を祈願する「菩薩」を想定するとしっくりきます。
では、菩薩になっていないもの(渇愛や無明を滅していない人)は、どのように慈悲喜捨を育てればよいのでしょうか。
この点に関しては、テーラワーダの考えが役立つように思います。
アルボムッレ・スマナサーラ先生は「現代人のための瞑想法役立つ初期仏教法話4」サンガ新書の中でこのように言われています。
「人間というのは、とんでもないわがままな存在なのです。よく、人間は尊い存在だとか言われますが、とんでもありません。ひどくわがままでいい加減な、自分だけよければよいと思っている存在なのです。ですので、まず正直に ” 自分が幸せでありますように ” と念じます。そのとき、ほんとうに自分が幸せであってほしいと、正直に念じましょう。同じように、” 自分の周りの人々、親戚、親しい人々が、みんな幸福になってほしい ” と、真剣に念じてあげてください。自分だけのことが気になっていた狭い気持ちが、親しい人も含める大きいものになります。」
そのためテーラワーダは、修行として「慈悲の瞑想」を行い、また、行うことを推奨しています。
「マインドフルネス婚活」は、上記スマナサーラ先生の立場によります、というよりスマナサーラ先生の教えにより「慈悲の瞑想」を行ってきたので、必然的に上記のような考え方になります。
カール・ロジャーズの6条件に学ぶ「好感の創出」
カウンセリングの勉強をしているので、「仏教の認識論」と「Beckの認知モデル」「認知行動療法」はとても似てるよね、という考え方に至っているのですが、「慈悲喜捨」を考えるときには、カール・ロジャーズの考えが思い浮かびます。
カール・ロジャーズは「治療的人格変化の必要にして十分な条件」(1957年)として、以下の6つをあげています(諸富祥彦「カール・ロジャーズ入門 自分が”自分”になるということ」コスモス・ライブラリーより引用)
- 2人の人が心理的に接触している。
- 一方の人(クライエント)は、不一致の状態、すなわち、傷つきやすい不安な状態にいる。
- もう一方の人(セラピスト)は、この関係の中で一致している(あるいは統合されている)。
- セラピストは、自分が無条件の肯定的配慮をクライエントに対して持っていることを経験している。
- セラピストは、自分がクライエントの内的照合枠を共感的に理解していることを経験しており、またクライエントにこの自分の経験を伝えようとしている。
- クライエントには、セラピストが共感的理解と無条件の肯定的配慮を経験していることが、必要最低限は伝わっている。
カール・ロジャーズは、治療的人格変化が起こるためには、これ以外は必要がないと言っています。
この6条件は、訓練を積んだセラピスト(カウンセラー)でなければ実現できません。
なぜならば、「無条件の肯定的配慮をクライエントに対して持っていること」も「クライエントの内的照合枠を共感的に理解していること」も、言葉でクライエントに対して「明示」するのではなく、自分の状態として、自らが作り出し「経験」し、かつクライエントに「経験」が「必要最低限は伝わ」らなければならないからです。
その様に考えると(限定して考えれば上記の6条件に合致する、ということになりますが)、カウンセリングとは、自然発生的に生じる人間関係ではなく、言い換えれば「カウンセリングにおいてしか成立しない人間関係」と言えます。
人は得てして「自分が見たいように見て」「自分が考えたいように考えて」「自分の考えのセールスマン」になりがちです。カウンセリングを勉強しているとそう感じます。
スマナサーラ先生の言われることは、一面真実だと思います。
カール・ロジャーズの6条件は「好感の創出」に示唆を与えてくれます。
慈悲喜捨の心を作り出し、「好感を創出」することは、
- 自分の状態として、自らが作り出し「経験」し、
- 「経験」が「必要最低限は伝わ」らなければならない
という点において共通すると考えられるからです。
「好感を創出する」マインドフルネス婚活の「慈悲喜捨」
以上の観点から「マインドフルネス婚活」で「経験」し、育てる「慈悲喜捨」について考えてみます。
自分に対して育てる気持ち | 他者に向ける気持ち | |
慈 | 自分を大切にする気持ち 自分は幸せであってよいという気持ち 自分は幸せを望んでよいという気持ち 「わがままでいい加減な、自分だけよ ければよい」(欲の渇愛、有の渇愛) という気持ちとは別 | 自分を大切にしているように他者も自分を 大切にしていると感じる気持ち 他者も自分同様幸せであってよいという気持ち 他者も幸せを望んでいることを肯定する気持ち 他者の考えを「容認」すること(無条件の肯定 的配慮)しかし、すべてを「是認」するわけで はないこと |
悲 | 悲しい出来事やつらい出来事に「怒り」で 対応しないこと 悲しい感情やつらい感情が生起したと知り、 悲しい感情やつらい感情を忌避しないこと 心理学の「未完の感情」を「完結」させる こと、と言えるかもしれません 仏教の認識論は「無我」なので「私は悲し んでいる」ではなく「悲しい気持ちが生起 した」ととらえます それによって悲しい 気持に翻弄されないようにします | 他者を自分と同じつらさ悲しみを持つ存在だと 理解すること 他者に生じた悲しい感情やつらい感情を共感的 に理解すること(内的照合枠ととともに) しかし他者の悲しい感情つらい感情と一体化す ることではありません また元気づけることや励ますことでもありませ ん 悲しいことやつらいことによって生じた他者 の「怒り」に同調することでもありません |
喜 | 自分に生じた「喜びの感情」を適切に知る こと 本来的には「生きていることの喜び」を 知ることだと思われます 瞑想の深まりによる「止」による「喜び」 によるものかもしれません | 他者生じていない喜びを願うこと 他者に生じた喜びを否定しないこと 「嫉妬」は「自分がほしいものを他者が得た ときに起こる感情」なので、嫉妬は「自分が 欲しいものを自分が得ること」も否定してし まいます |
捨 | 自分を苦しめる自分独自の価値判断を捨てる ことによって平等の心(自分と他者を必要以 上に区別しなこと) 人は生きているがゆえに等しく尊いという 気持ちを持つこと | 他者も自分と同じ幸せを望む人間として、自分 への「慈悲喜」を他者にも向けてゆくこと |
「他者からいい人と思われる」ことを求めない
自分を大切にする気持ちの弱い人(自分に対する「慈」の気持ちが弱い人)は、「他者からいい人と思われる」ことによって「自分の価値」を確認しようとするかもしれません。
もしそうだとすれば、それはあまり自分に良い効果をもたらさないように思います。
「他者からいい人と思われる」ために何かをすることは、自分を大切にする気持ちが弱いことを認めていることになりますから、結果として自分を大切にする気持ちは育たず、他者に振り向ける「自分を大切にしているように他者も自分を大切にしていると感じる気持ち」が育たないことになります。
また「他者からいい人と思われる」ために何かをすることは、欲の渇愛にもつながります。自分にないこと(自分を大切にする気持ち)を、「他者からいい人と思われる」ことに求めているからです。
「他者からいい人と思われる」から、あなたには価値があるのではなく、生きているものは等しく尊い、と考えるのが「慈悲喜捨」の根底にある考え方です。
だからこそ「私が嫌いな人」「私を嫌っている人」にも「自分を大切にしているように他者も自分を
大切にしていると感じる気持ち」を向けるのです。
推奨する「慈悲の瞑想」文
自分のなかに「自分が幸せである気持ち」「幸せでありたいという気持ち」を「作り出し」、「経験」し、その「経験」を他者に「伝える」ことを可能にする慈悲の瞑想文を考えてみました。
私に対して | 私は幸せでありますように 私の悩み苦しみがなくなりますように 私の願い事がかなえられますように 私にさとりの光が現れますように 私が幸せでありますように |
私に対して 自分を大切にする気持ちを育てる瞑想文 | 私は幸せでありますように 私は幸せであって良い存在です 私は幸せを求めてよい存在です 私は幸せなることが出来る存在です 私は幸せになることを選択できます 私は幸せになることを選択します 私は幸せでありますように |
親しい人々に対して 家族を想定 父母兄弟姉妹等としてもよい | 私が幸せであるように、私の家族もしあわせでありますように 私の悩み苦しみがなくなるように、私の家族の悩み苦しみもなくなりますように 私の願い事がかなえられるように、私の家族の願いごともかなえられますように 私にさとりの光が現れるように、私の家族にもさとり光が現れますように 私が幸せであるように、私の家族もしあわせでありますように |
周囲の人々に対して たとえば職場の人々 | 私が幸せであるように、私が接する人々もしあわせでありますように 私の悩み苦しみがなくなるように、私が接する人々の悩み苦しみもなくなりますように 私の願い事がかなえられるように、私が接する人々の願いごともかなえられますように 私にさとりの光が現れるように、私が接する人々にもさとり光が現れますように 私が幸せであるように、私が接する人々もしあわせでありますように |
私が嫌いな人々に対して | 私が幸せであるように、私が嫌いな人々もしあわせでありますように 私の悩み苦しみがなくなるように、私が嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように 私の願い事がかなえられるように、私が嫌いな人々の願いごともかなえられますように 私にさとりの光が現れるように、私が嫌いな人々にもさとり光が現れますように 私が幸せであるように、私が嫌いな人々もしあわせでありますように |
私を嫌いな人々に対して | 私が幸せであるように、私を嫌いな人々もしあわせでありますように 私の悩み苦しみがなくなるように、私を嫌いな人々の悩み苦しみもなくなりますように 私の願い事がかなえられるように、私を嫌いな人々の願いごともかなえられますように 私にさとりの光が現れるように、私を嫌いな人々にもさとり光が現れますように 私が幸せであるように、私を嫌いな人々もしあわせでありますように |
生きとし生けるものたいして | 私が幸せであるように、生きとし生けるものもしあわせでありますように 私の悩み苦しみがなくなるように、生きとし生けるものの悩み苦しみもなくなりますように 私の願い事がかなえられるように、生きとし生けるもの願いごともかなえられますように 私にさとりの光が現れるように、生きとし生けるものにもさとり光が現れますように 私が幸せであるように、生きとし生けるものもしあわせでありますように |
この瞑想文が、一番効果を実感しやすいように思います。唱えるだけで少し心が変わると思います。
「悩み苦しみ」の部分には、自分が「何に悩み苦しんでいるのか」がわかれば、それを入れてもいいと思います。
多くの場合は「何に悩み苦しんでいるのか」明確になっていないケースが多いのではないでしょうか。
「何に悩み苦しんでいるのか」ということは、その悩み苦しみがどのように生起しているのかを知ることです。どのように生起しているのかがわかれば、悩み苦しみ(の原因)をなくすことができます。
これが「四聖諦」の手順です。
また、Beckの認知モデルでは、「機能的な自動思考や中核信念、媒介信念」が気分、体、行動に悪影響を与えます。「機能的な自動思考や中核信念、媒介信念」を突き止め、現実的なものに修正することで気分、体、行動が改善し、苦しみが改善されます。
「四聖諦」「Beckの認知モデル」は『マインドフルネス婚活・プログラム』をご参照ください。
慈悲の瞑想は、意味を改変しない限り自由に変えることが出来ます。自分の幸せを心から願い、それと同じ気持ちを他者へ向けてゆくのであれば、改変OKということになります。
慈悲の瞑想は、あくまでも「自分を大切にする気持ち」を育て、それを他者にも向けてゆくことで「自分の心をキレイ」にするものです。これで他者が幸せになるわけではありません。
他者を幸せにするとすれば、あなたが「自分の心をキレイ」にしたことによって、他者と接したあなたから、他者へ伝わることによります。
その様に考えると、「私が嫌いな人」「私を嫌いな人」に、瞑想の中だけであっても「自分を大切にする気持ち」を向けることはやってみる価値があります。
あなたが幸せでありますように
あなたの悩み苦しみがなくなりますように
あなたの願いごとがかなえられますように